飛鳥聖羅「詩学の扉」

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  • #332

    飛鳥聖羅
    参加者

    飛鳥聖羅の詩論です。あるいはある詩人たちの作品について論じたものです。

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    #333

    飛鳥聖羅
    参加者

    美の園で永遠を見る
        (若き詩人への手紙 1989年9月)
                      飛鳥聖羅
    1

    「言葉は符号である」という君の言葉がある。その符号を活かすも殺すも詩人自身の問題ではないだろうか。言葉を否定したり、拒絶したり、嫌悪するという行為の後に何が残るか。人間の口から発せられる以前の言葉は善悪を越えているし生死を超越している、また美醜を越えている。言葉を弄んだり、嫌悪したり、また愛したり、親しんだりするのは、いつも人間の側なのであり、言葉には責任がない。言葉を否定しても心は残る、言葉は残る。美しい人間はあっても、人間の美しさというものはないと言ったのは誰だったか。部分観と全体観によって、ずいぶんと違った世界が現われてくるものだ。美しい言葉はあっても、言葉の美しさというものはないということか。何かを暗示する符号か、比喩・暗喩する符号か、何かを象徴する符号か、それとも何ものもあらわさず、何の意味もない符号か、あるいは古代のドルメンの巨石のように現代人にはわからない謎の存在としての符号か。言葉自体を符号として、何かを表わす符号として使用するのであれば、それによって作られた作品は、やはりドルメンのように謎を表わすのか、あるいは明確なイマージュを呼び起こす媒体として存在するのか。いずれかだ。

    2

    「九月のやさしい風に咲く花よあなたの美しさが悲しい 生きてゆくことは悲しい」なんと無常観をただよわせた悲しい符号だろう。僕はこの符号の底に、君の心を視る。それは、読むという僕の行為だ。
    「赤い血の排泄物」である言葉という符号を流しながら、疲れはてても走る孤独の長距離ランナーたる詩人よ、言葉を信ずるという行為が必要であると思う。それはとりもなおさず、自身の心を信ずるということでもあろう。一切を否定しても、なお残るものがある。それは《生命》というものだ。《色心不二》の自己自身だ。また《我》でもあろう。真我、大我とよばれるものである。

    3

    無造作に言葉を日常の外へ投げ捨てる詩人の存在は、悲しいものであろう。なぜなら、彼は自己の意志を、受信されないものと、思いこんでいるのだから。それでもなお、言葉の風の符号を追いかけていく詩人は、まだ遠方に何かがあると走りつづけていくのだろう。遠方にあるのではないと、僕は思う。近くにある、それはもっとも近いところにあるのだ、詩人自身の生命のなかに実在していると考える。

    4

    詩的時間・空間はある面では超現実的であるが、作品の言葉自体は作者の生命から迸り出たものであるから、否定のしようのない現実であり、事実である。詩人の人間像を浮き彫りにしてしまう。これをもって考えるならば、作品というのは超現実的現実の世界である。これは超現実であるとも言えるし、現実であるとも言える。また逆に超現実でもないし、現実でもないとも言える。超現実的現実という言葉は、符号としては残るが、こころは表わし難い。不完全であるが、完全な詩的世界は考えられるかどうか。これが問題だ。『現実』とは何かということさえ、明確に答えられる人がいるかどうか。昔は、物質はあると思われていたが、本当にあるかどうかは疑わしいとある科学者は言っている。僕達はいままぼろしを視ているのかも知れない。有るというのでもない、無いというのでもない。思議しがたい世界に僕達は住んでいるのだ。現在はすぐ過去となり未来にとって変わられる。近い過去、遠い過去、近い未来、遠い未来という違いはあっても、現在は刻々と未来を迎えて流れている。一瞬として留まらない。この一瞬の現在にすべての過去が含まれ未来が含まれていると思われる。瞬間の生命に『永遠』が凝結しているようだ。
    過去、現在、未来という言葉さえ便宜上、人間が作り出した言葉にすぎないのかも知れない。本当は生命の宇宙時間には過去とか現在とか未来とかいう言葉では言い表わし難いものがあるのではないかと思う。しかしながら、過去を食べて生きている人、現在を食べて生きている人、未来を食べて生きている人がいるようだ。できることなら未来を食べて生きていきたいものだ。

    5

    僕は生命というものを信ずるが故に、言葉を信ずる。たとえば、言葉の力は作者の力だ。言葉をみがくということは、自身を磨くということだ。深く自身を知らなければ、新しい言葉も創り出せないし、ましてや未知の世界に到達することもかなわないだろう。
    「文は人なり」と世間ではいう。僕は、「文は生命なり」と考える。生命は宇宙大のひろがりをもっていると、僕は信じている。宇宙大に通じる詩的時空を、想像力を駆使して、創りあらわせたら、どんなにか素晴らしいだろうと思う。詩的世界は宇宙大の時空を胎んで、いきづいている。詩人の体温の伝わる言葉を創造することは、むずかしいものだ。結局、そういう創造をなさんとして、挑戦していく以外にないだろう。

    6

    「空は不思議に晴れていた そこから僕は走ったのだ」と、君はうたう。その時間と空間(場所)において、ある境遇におかれた君は、空が晴れているということを、不思議だと感じたのであろう。そのとき晴れている空の現象を不思議に思うことは、だれにでも出来ることではない。詩人の時間と空間は、彼の境涯に応じて、さまざまに変化していくものだ。思議しがたいけれど、いまの自身にとって、晴れている空があるということは、宇宙のリズムと自身のリズムがぴったり冥合した状態に入っていることを、暗示しているのかも知れない。たとえば、見えない何者かによって祝福されているというような状態になったとき、人はそこに不思議を感じるものなのであろうと思われる。予期しなかった場面にであって、その人に歓喜をもたらすというような出来事は、よくあることである。たとえ、それが偶然になったことだと、他者は思ったとしても、ある場合は当事者にとっては、必然の出来事だと感じられることだってあり得るものだ。強い祈り、心の底からの願いが通じて、その人の一念の磁石に引き寄せられるようにして、環境が変化し、あらわれるべき人があらわれ、現われるべき事象が現われ 、かくして天空は晴れるべくして晴れわたり、願いをかけた人の前にその姿を現して見せるのだ。そのとき、人はこの現象を、不思議だと思うのだろう。人間における一念の強さと、また一念における感応の妙とは、このことだと思う。ある面で、環境を動かし、宇宙をも動かしていく力を、人間は本来いのちのなかに持っていると言えるだろう。この論法からいえば、いっさいの原点は人間にあり、ダイヤはダイヤで磨くしかないと同じように、人間は人間によって磨くのが最良の道であろう。生命と生命のうちあいによって、鍛えられ磨かれ光る存在となっていくのだ。師匠と弟子、この師弟関係が人間にとって、もっとも望ましい関係であり、現代人にもし不幸があるとすれば、それは師匠を持たないところにあると思われる。
    不思議に晴れていた空があり、その時空に何かを感じた詩人の君は、走ろうという衝動にかられたために「そこから僕は走ったのだ」。さて、何のために、何に向かって、何の目的をもって走ったのか。ただ人は理由もなく走るということがある。そうせずにはおられないという状態にあるとき。たとえば、あるものに感動して、歓喜にうちふるえ、われしらず、舞い踊るという光景を思い描いてみれば、よくわかるだろう。

    7

    《海は一羽の瑠璃鳥のように青い》
    《永遠にむかって開かれた朝の扉は、生死の糸を紡ぐ瑠璃鳥のように青い》
    《永遠の太陽にむかって開かれた朝の扉の海は、生死の糸を紡ぐ瑠璃鳥のように青い》
    この三つの詩句は、僕の作だが、永遠は宇宙の時空をあらわし、朝になって日が昇り、海原を覆っていた夜の闇が消え去る状態を、開かれた朝の扉の海とうたい、海は人間の生死海をあらわし、生死は人生の苦しみをあらわし、瑠璃鳥は生あるものの代表としてあらわし、その羽根の青は眼に染み入る青であり、ピュアな色合であって、「永遠」と対称をなす青として、海の青に結合させ、宇宙に融合しゆく青となる。「永遠」と人間の生死の結合は、詩的時空をかぎりなくおしひろげる働きをし、超現実の世界を出現させる。かえってそれが現実の質を高め、ゆたかにし、現実に彩りを与えるものとなるだろう。

    8

    不思議に晴れた虚空に、わが身をおいてみれば、否定すべき言語もないし、否定すべき人間の存在もない。すべてのいのちあるものは、歓喜にみちているし、ひかりかがやく存在である。生命の大地から涌き出た詩人は、「人間群」という海原のなかにはいっていく人であり、現実のうえでは人間関係や自然現象また社会現象によってもたらされる悲劇や悲惨な出来事のほうが多くて、不幸や苦悩を感じることが多い。歓喜やしあわせな出来事は少ない。だから、この現実の障壁にたちむかって、自他ともの歓びを創り出していくのが、詩人の一つの役目かもしれない。人間と社会と宇宙を結ぶ目にみえない糸があって、それは一つの法則とよばれるものに思われるが、その糸の上下左右で右往左往しているのが現代人の大半だとしたら、やはり調和に欠けた世界だけが現出し、戸惑いの壁にさらにとまどいの上塗りをするという愚かさをさらけ出してしまうだろう。

    9

    わが胸中の肉団の、心王真如の都の一角より声がする。《千の詩句を知っても無駄なことがある。たとえ四分の一の詩句でも、それを聞いて心が開ければ、その方がはるかにましである》と。生命誕生いらいの、すべての記憶が貯えられている無意識層の領域、九識論(くしきろん)のなかの八番目の識・阿頼耶識(あらやしき)より夢は意識のうえに発現してくる、この場合の夢とは寝て見る夢のことだが。人間と人間の心が互いに融合し、巨大な生命の海原となって脈動している領域の、九番目の識・根本浄識からは夢は昇ってくることもない。人類のすべての心を支える生命の大海には、人類誕生いらいの、ありとあらゆる遺産が流れこんでいる。生命の深奥には、人類の築きあげたあらゆる精神の宝が生れながらにして生命にそなわった財産として、これは確かに実在しているのだ。虚空に敷き詰めるほどの財宝があったとしても、人間が一日生きる生命の方がはるかに尊厳であり、大事のなかの大事ではないかと思う。

    10

    「生きてゆくことは悲しい」との君の言葉は、単なる詩句であろうか。いらだちの心、あせりの心、やるせない心、現世に対する懐疑心、または怒りの心、あるいはすべてを無常と観る心がはたらいていないか。悲しいまでに美しい九月の花がやさしい微風に吹かれて揺れている。悲しいと思う心は愛しいと思う心に通じていないか。花を見て感動する敏感な感受性のアンテナを心のなかに持っている人は幸せだ。「悲しい」という言葉は「花の美」をきわだたせる。あまりにも美しいが故に短い生涯をあわれと思い、悲しみを誘発する。短い花の生涯と人間の生涯をダブラセテ「生きてゆくことは悲しい」というのか。「それでも走りつづける」詩人とは、いったい何者か。「生きてゆくことは悲しい」が故に、言葉を信ずる以外にないのではないだろうか。あるいは、それがためにいっさいを否定して生きる虚無に陥るか。どちらを選ぶべきかと、問う。自身の宿命をみつめ、それを受け入れる度量をもち、なおかつその宿命を打開し、乗り越える力を身に着け、ついに新しい自己自身を発見する以外に道はないと僕は考える。いっさいの労苦を、自身の生涯の財産とすることだ。まさしく、文は生命なりと僕は確信する。自身の心を信ずるが故に、『言葉』を信ずることができ、『言葉』を信ずるが故に、他者の存在を信ずることができる。
    昔の賢聖の言葉に《心の師とはなるとも心を師とせざれ》とある。変転きわまりない心に振り回されるのではなく、その心を制御する師の存在はじつに大きい。その師をもっているかどうか。これが問題だ。これが人生の最重要の課題であろう。

    11

    詩の言葉はわが内なる泉からこんこんと涌きだしてくる。それはなぜか。いっさいを否定したあとで、自己自身の生命を、また宇宙の生命を信ずることができたからだ。
    人類共通の生命を突き抜けて、植物、動物、太陽・月・星・地球・惑星のいのちさえもはらむ大宇宙そのものの根源、ひとりの人間のいのちを支え、内なる海に無限にひろがりゆく宇宙の根源を求めゆく時が到来したと思う。あらゆる宇宙の森羅万象、太陽・月・星・すべての山・すべての海・一塵も欠けず、ひとりの人間のいのちのなかに備わっているのだ。諸々の存在の、諸々のはたらき、それがわが身に含まれている。宇宙生命の源流を洞察しぬくならば、我が身に宇宙大のひろがりがあり、宇宙万象をうみだす根源力がそなわっていることに気がつくだろう。万物をはぐくみ、慈しむ力と智慧が内在しているいのちには、宇宙をも動かす巨大なエネルギーが充満している。人間のいのちの奥底には、厳然と宇宙生命が実在しているのだ。

    12

    詩作するということは、たとえていうならば、土砂に埋もれた遺跡を掘り起こし、失われた宮殿を探り当て、それを現代に蘇らせることに似ている、埋もれた遺跡がどこにあるかさがすのは難しいが。またいのちのなかに埋もれた鉱脈に光を当て、掘り出した岩石をみがいて、光沢のある詩篇となすということか。自身の生命の内なる宮殿のなかに入っていくことができるかどうか、これが問題だ。

    13

    仮に諸国を流浪して生活の糧を求め歩く人がいるならば、わずかばかりの人生の宝を外界に求めて放浪の旅をつづけ、少なきを得て満足している人がいるならば、自身のいのちの外に幸福を求めて尋ね歩くことの愚かさを知らねばならない。いのちの内にこそ、無量の価値ある宝珠がある。自身の内にこそ、偉大なる真理と、創造への鍵が秘し沈められているのだ。力強く清浄で創造性に富み、宇宙大の広がりを持った世界がいのちの奥深く横たわっている。あらゆる宝を備えたいのちを根底からささえている宇宙の根源の力に思いをいたすならば、さいわいは山のかなたにあるものではなく、自らが内部に生命の賛歌をかぎりなくうたいあげていく行動のなかにあると知るであろう。すべてのものに歓びをみいだしていける人は幸いだ。これによってさいわいを万里のかなたから呼び集めることができるのだ。人はみな人生を楽しむために、この世に生れてきたと思う。現代の世界は本来、僕たちの本国土である。僕たちのいのちは永遠である。しかるに、この世にあって、無明にして迷妄であるため、種々の困難があり、みな苦闘と激戦の連続のなかを生き抜いていかねばならない。生きるとは戦いの異名かもしれない。負けるか勝つかだ。負ければ生死海のもくずと消えていく。最後の勝ちこそ、その人の栄冠だ。真の勝者とは自己に打ち勝ったもののことだろう。最後に勝った者の頭上に燦然とかがやく栄冠は、だれびとも何者も、奪い取ることができない。

    14

    安逸の夢を破り、怠惰の眠りを醒まし、生命の地殻を震裂させて涌出する人間群像、泥沼のなかに清らかに咲く蓮華のようにかがやく生命変革の勇者たちがいる。あらゆる試練を乗り越え、もろもろの苦難の大波を一つひとつ克服していくのが真の遊楽なのだと、声も惜しまず語り継ぎ未来に伝えている。波乗りを楽しむような、悠々たる自己の生命力を自覚するとき、永遠に崩れない幸福を我が身に具現できるだろう。いかなる苦境に立たされても、いかに悩みが多くても、また大きくても、それらをひとつの縁とし、試練と受けとめて、自身のいのちを躍動させている。いっさいの労苦こそ財産とし、未来へ飛翔していく青年たちである。世界のあらゆる岸辺で、街角で、海辺で、窓辺で、田園で、森の中で、大都市で、鉱山で、工場の中で、島々で、サバンナで、オアシスで、庭園で、空港で、港町で、各駅の停車場で、温泉街で、城砦都市で、世界周航の旅路で、病室で、ホテルで、果てしなくつづく荒野で、熱帯雨林の中で、砂漠の中で、雪原地帯で、花園の中で、艦隊の中で、議事堂の中で、闘牛場で、音楽堂の中で、劇場の中で、学び舎の中で、スタジアムの中で、いま人間の人間による人間のための風が吹きはじめた。新しい風だ。誰もこの風を止めることはできない。また止めてもならない。

    15

    若くても生涯青春だ、老いても生涯青春だ。永遠なる青春とは君自身の命の中にある。みずからの内なる世界をみつめ、そこに秘めやかに眠っている無量の鉱脈を掘り起こし、掘り出して清浄にみがきあげる練磨の精進と、また挑戦と応戦のスペクタクルこそ汝自身を知る直道であると思う。無限なる命ゆえに文学もまた無限であろう。その無限なるいのちの、可能性の原石を磨きあげ、光沢にみちた金剛の宝石の詩篇とすることこそ、僕たちの願望である。胸中にある力をわきださせ、身もこころも躍動させていく。その一念の波動はやがて自然や環境をもゆりうごかし変革していく。はじめに君という一人の人間の偉大なる変革があるならば、やがて時代・社会のゆきづまりの打開も可能となるだろう。

    16

    目には見えないが、空には渡り鳥の飛行する道があり、海には魚群の回遊する道がある。人間のいのちにも厳然といのちの道がある、法則がある。いかなる人であっても、仮に国法の網の目をうまく逃れることができたとしても、おのが身を貫くいのちの法則からは逃れられないのだ。自身を見失い、権力・財力・名声に人生の目的と帰結をもとめる愚を知らず、財宝を自己の外に求める人は、やがて禍根の淵をさまようことになるだろう。現代は絶望の深淵へとつきすすんでいると警告を発する人が多い。そのとおりかもしれない。この病状は処方箋のみでは、どうにもならないのだ。いかに効能書が克明であっても、それを自在に使いこなす人間の変革がはかられていなければ、一枚の紙きれに等しいといわざるをえない。

    17

    わが宇宙はあらゆるいのちに満ち満ちている。万物の生をささえはぐくみながら、永劫の変転をつづけている。この宇宙にいだかれて、わがいのちもまた生死・流転のはてしなき永遠の輪廻旅をつづけていく。死んだときは宇宙に融けこみ冥伏(みょうぶく)して、宇宙自体を身体となし、心となしつつ実在していた。いま宇宙物質を凝縮して有機的生命へと、この世によみがえりきて、僕たちの果たすべき使命とは何か。

    18

    無始よりこのかた無明の酒にたぶらかされて、六道に輪廻し、もろもろの苦しみを受けてきた。いま目覚めて真実の幸福を享受しうる生命の流転へと、宿命を転換すべき時である。むさぼり・いかり・おろかさの三つの毒の煩悩に束縛されず、おおきな白牛の車にのって、桜や桃・梅やスモモの季節を楽しみながら、いのちの自由・自由の魂を無限に高めていくことができる。生きることを忌まわしく思う無気力や虚無でもなく、快楽のみを追ってついにはその快楽のために苦しまねばならない人生でもない。友の嘆きの声をわがいのちの痛みと受け止められる度量を身につけたいものだ。目覚めた英知をもって自らの内からの解放と確固たる自我の拡大をはかり、精神活動の共有に基盤をおいた文化のうず潮をまきおこすべきだろう。明晰なる哲学の欠如、強靭なる精神の欠如、慈悲の欠如、これが現代の不幸の元凶だと思う。

    19

    無慈悲な自己自身をのりこえて、熱と力でもろもろの宿業を打開し、けんらんたる人間の王者の道を走りつづけることだ。新しい世紀は近い。人生の十字路に原点をもっている人は強い。人間と生命の解放の旗手たれ、君よ。ふきすさぶ北風に向かって、いさぎよく前進しよう、友よ。

    #336

    mariko sumikura
    キーマスター

    詩についての考察拝見いたしました。これで作品の理解ができました。

    #337

    飛鳥聖羅
    参加者

    詩の魅力と言葉の力
    飛鳥聖羅

     女流詩人の徳本和子さんの魅力について書いておきたい。詩の朗読会で言葉の豊かさと鋭さに次第に参加者が惹きつけられていき、その詩の世界が少しずつみんなをすっぽり包んでいってしまう、そんな温かい情景に感動を覚えた一人である。
     ある詩人が書いた詩の言葉が、別の詩人たちの魂を揺さぶり、その感性を新たに覚醒させることは昔から知られているが、徳本和子の詩の世界に連なる縁をお持ちの方は、その彼女の感性構造の細やかな女性らしい網の目に羽を休めている蝶やトンボのように、新しいエネルギーを吸収して後に自分の世界に飛び立っていくかのようであった。
     一人の詩人の作品とその生涯に向き合うとき、そのすさまじい生き様と、詩人としての自覚と使命の深さに身震いするほどの感動を禁じ得ないものであろう。
     肉体を蝕むガンとの壮絶な戦いが七年間も続いたなどということは、それらの病魔にうち勝つほどの彼女自身の細胞の沸騰、歓喜の翼の飛翔がなければ、持ちこたえることの出来ない恐るべき世界ではなかったかと、想像するばかりである。その見事としかいいようがない精神の強靱なことには、ただただ脱帽するばかりである。彼女の詩を支える豊饒の精神性の鋼が宇宙の星々をして協賛せしめ、その精神軸の確かなることによって、哲学性に裏付けられた優しさ、万物に対する慈愛のほとばしりをゆたかにしているのである。
     未来の人々におくる贈り物を小箱に詰める作業に秘かに汗して、生きる時間と空間の闇夜に星の火を灯しながら、そして未来に自らの作品の周りに相集ってくるだろう親しき人々に思いを馳せながら、それが確かな事実となることを確信しながら、彼女は詩を作る喜びを片時も忘れずに豊かに生き抜いたのではないだろうか。この地上に生きるすべての人々に、文学や詩の言葉の持つ力がすくなくとも人間を蘇生させる原動力とはなりうるのだということを、教えてくれていると思う。人間性や精神性の復活、復興、再生、これらに十二分に寄与できる不思議な力が詩にあることを教えてくれていると思う。詩の朗読会に集う人々は、遠い地からでも駆けつけてくださる。みんなを結びつけてやまない徳本和子さんの求心力が、今度はみんなの詩心を解放してやまない遠心力となって、帰路に就く人々の魂を遠い国の不思議な鳥のようにこころよく鳴り響かせているのである。また新しい詩がそこかしこで産声をあげるのが聞こえるし、それが鮮やかに見えるのである。
     徳本和子の詩に誘われて集って来た人々が、ここかしこで談笑し、笑顔をふりまき、花や星の砂のようなうまれたばかりの輝きの微笑を投げかければ、遠い異国の民族楽器を奏でる楽人の名演奏のその響きにこだまして、遠い宇宙の泉の中から、徳本さんの詩編がタンポポの綿毛のように舞い降りて来るのではないかしらと、まなこをこらし、耳をそばたてるのである。
     自然の土のぬくもりと、宇宙のさえざえとした星の滴や月の光の一滴が詩人の詩の魂の一滴と相呼応して、温かい幽玄の境地に人々を誘い、憩わせ、安らぎの宝のようなひとときを醸し出すのである。徳本和子の世界には、夕闇迫る頃の雨の慕情も、帽子を飛ばしてゆく風の色も、沈む太陽に照らし出されていく秋の色のまんだら模様も見えているのである。湖の水の色合いの深さも、燃える生活の火の色も、秋の夜長に鳴きすだく虫の声も、夏の蝉の声も蛍の光も、水辺に遊ぶ虫たちの振る舞いも見えているのである。遠くの海原を渡る鳥たちのいることも、舟人たちのいることも知っていただろう。病棟にうごめく影薄い幻影のような人々のことも知っているだろう。いっさいの病める人と時代の姦しい歯車の音に耳をすまして、おのれ自身と未来の生活に希望の蘆束を編むことを遂に止めなかった徳本和子さんという一人の女流詩人のいたことを、ぼくらは忘れてはならないだろう。
     いま、彼女の作品を朗読する人々の実に美しい肉声のその響きを耳にして、あらためて詩というものの生命のことばの煌めきと、その言の葉の人をして惰眠と惰性の日常性をうち破り、喝破し、覚醒せしめる力の大きさと確かさと、そのどよめきを感ぜざるを得ないだろう。人間に向き合うしたたかさ、自然にまともに向き合うおおらかさ、宇宙と一体になろうとして向き合うその人の巨大さ、それは遂におのれ自身の宇宙に向かい合う偉大さであろう。人は悲しみによって己れを避けて通りたがるものである。己れの貧窮に目を塞ぎ、おのれの病に眼を閉ざし、おのれの死の淵から身を逸らそうとするものであろう。富める他者をただ羨望の眼でのみ、追い求めても得るものは、ただ悲哀の酒袋ばかりである。

     徳本和子さんの詩編の言葉が朗読されてから、詩が詩を呼び合い、人の声が新しい人の声を呼び合い、人が人を呼び合い、雨が雨を呼び合い、星の光が星の光を呼び合い、月に月が重なり、智慧の火に詩心の火が燃え移り、清新な感性の波頭が新たな感性の水を呼び出し、新しい人間の風を呼び起こしているのである。
     詩人のいる宇宙は、いまきっと紺碧のブルーに晴れ渡っていることだろう。

    #338

    飛鳥聖羅
    参加者

    下田喜久美の詩に寄せて
    飛鳥聖羅

     詩集『ルビーの空気をすいました』のあとがきで、下田喜久美は次のように語っています。
    「生きるほどにわたしの満たすものを手に入れることの少ない日々。夢は永遠にわたしの心火として深く眠っているのかもしれません。
     今咲くバラを大切にしたいです。
     得がたい、たった一つの生命の海、夕焼けの故郷、すべてをつつむ宇宙の大きなふところ……。この中にある嬉しさを心にだいていきていきます。この世に得られないかもしれないものを、詩というフィルターを透して信じつづけます。一日一日かぞえて生きるこの刻限こそ、宇宙との契りの糸に導かれているのでしょう。あるのは安心と光明です。そして明日の太陽です。未来への光の河、たしかな生命の視座です」と。
     宇宙にいだかれてあることに喜びを見出し、また感動をもって宇宙を包みかえしていくような大きな作者の心を感じます。
     下田喜久美は現代詩から児童詩、少年詩へとうたいついで、詩の何たるかを得たのではないだろうか。表現力や想像力に磨きがかかり、短い詩の形の中に宝石のきらめきのようなことばとことばのぶつかりあい、また結び付きをみせて、ほんとうに美しいものを美しく見る確かな目を持っておられるのではないかと思われます。

       「あざみ」

      ルビーの空気を すいました
      水晶の水を のみました

      だから
      あざみの花は
      あかむらさき

       「なのはな」

      きいろい波しぶきをあびて
      およいでいる
      みつばち

      海ですか
      花ですか

      海は地平線まで つづいて
      黄色い波しぶきは
      空まで つづいて
      なのはなのかおりに
      つつまれてゆく

     私の好きな二編の作品をかかげてみましたが、ほんとうに心の深さと広がりを感じます。大地と海原の結び付き、菜の花畑と波しぶきとの結合、天と地が香りに包まれていくその中を、みつばちといっしょになって詩人は泳いでいるのではないだろうか。
     花が海であり、心です。海こそ花であり、心です。詩人の心が蜜蜂となって宇宙を自在に楽しみながら翔び廻っている。そんな境涯の詩ではないでしょうか。
     空気がルビーであり、水が水晶である。そんな空気を吸い、水を飲んだものはどうしてあかむらさきにならずにおれましょうか。「あざみ」は詩人・下田喜久美の心火と思えてなりません。普通、あざみとルビーは結び付いても、空気とルビーはなかなか結び付かないものではないでしょうか。透明なものと色彩あるものの結合、見えないものと見えるものとの結合、拡散されたエネルギーと凝縮されたエネルギーとの結合、天空と大地との結合、心と色との結合、精神と物質との結合、こういったことを考えさせてくれる作品だと思います。
     下田喜久美は「朗読文化関西レインボー」の代表をされており、たくさんの人材を育んでおられる大変な功労者でもあります。
     ある会合で、彼女が草野心平の詩を朗読したのを聞いたことがあります。その素晴らしさにとても感動しました。おおげさではなく、本当にからだが震えるのを覚えたほどです。また彼女の仲間たちの詩の朗読を目の当たりにして、詩の原点はここにあるのではないか、と深く考えさせられました。
     現在、朗読に耐えられる作品がどれほどあるのでしょうか。黙読するだけで精一杯という作品が多すぎないでしょうか。沈思黙考を繰り返してようやくその詩が解るという作品も大事なのでしょうが、詩を創る喜びとともに、詩は朗読されてその価値が倍増すると思われます。また詩は朗読されることによって、かえってその作品の持っている良さ、その力、その意味の深さ、広がり、言葉の美しさ、詩人の原形質、その知性や感性のこまやかさや構造の骨太さなどが聞いて良く解るということもありえるでしょう。
     朗読文化はこれからますます必要になってくるでしょう。詩は眼の文化であると同時に耳の文化でもあると思います。なにはともあれ、「声」に出して読む行為、「声」を発することの重要性は、眠れるものを又物事を目覚めさせ、奮い立たせる働きのなかに見出されます。現代のような非人間的なギシギシした社会にあっては、人間的な温もりのある時間と空間を構築できるという意味でも、詩の朗読は大事になってくると思います。
     ごくありふれた物と物との結合によって、まったく新しい詩の世界が広がります。
     下田喜久美の詩の世界は、それを感じさせてくれる数少ない生活に根ざしたルネサンス文学です。さいごに「星」という作品を鑑賞してみてください。

       「星」

      空からの
      かそかなひかり
      とおってきた道と
      ゆく道を
      やさしく てらす

      光は
      瞳の中で
      海になる

     読み終わった後から、胸の底に不思議な泉が湧きあがってくるのを覚えます。

    #339

    mariko sumikura
    キーマスター

    下田喜久美さんの本を訳した者として、この御評には同感を覚えます。詩というのは氷山の上部だけ、詩魂はほとんどが隠されています。
    それを読み取られることが凄いと思います。ポエジーとポエジーのフュージョンに乾杯!!

    #349

    飛鳥聖羅
    参加者

    万華鏡の中の時間
    飛鳥聖羅

     富樫庸著『レクイエム』の巻頭に《生と死の序章》がある。彼は、青は死へのイメージにつながるので、蒼い海が好きになれなかったと書いている。

     死は青、生は緑、躍動は赤。

     海の色も見る場所や深さによって、緑にも青にも見える。色彩を識別できるのは人間だから、あえて青と緑を死と生に二分するのだと、彼は言う。人間の感覚はその生死観によって磨かれると彼が言うとき、彼は哲学者の顔をみせる。この言葉は素晴らしいので、記憶にとどめて置きたい。
     どのような生死観を持つかによって、その人の人生が決まる、といえるかもしれない。
     青は死へのイメージにつながる、という富樫庸は、意外と繊細で神経質な面を持っているのかもしれない。私なら、青は青春や生命や泉や青空や海原を象徴するので、好きである。
     彼の言う青は灰色がかった、くすんで蒼ざめた色彩なのであろうか。それとも普通のブルーなのであろうか。
     海の色彩が青にも緑にもなりうるということは、海は死と生をともに象徴していて、どちらか一方だけを表しているとは言えないような気がする。
     さて、ここで、彼の《序章》のなかで、真実味のある言葉、とても感動的で、しかも戦慄的な言葉を紹介しておきたい。
    「死のイメージについて(中略)死的体験をつうじて、漠然とその輪郭をつかんだ。非存在としてのわたしはどこまでも自由奔放であり、時空を越えて浮遊しうる。そのときも確かにどこかに彷徨い出て、誰かを見ていた。いつも見ている風景と思いながら、自らに返ってくる感覚がいつもと違ってまるで跳ね返りがなく、これはおそらくわたしが非存在ゆえの、つまり死者ゆえのせいだと理解した。」

    「わたしは、腐敗を長引かせるために、ドライアイスを死者のまたぐらに滑りこませた。すでに硬直の始まった肉体のなかの、下肢と胴体の中心にむけて、震える手が滑りこむ。ここに生殖機能があり、頭脳や心臓とははるか遠くに位置せしめたのは、もちろん理由があってのことだ。
     なぜ、そこが躰の中心であったのか、誰も疑問には思わなかっただろう。いささかの恥じらいもなくいえば、生の《かたち》がそこに存在していたのだ。生は性につながり、この一本の鉄芯のような活字のかたちが生のかたちを決めた。
     壊れたかたちに限りない哀惜がこもる。かたちは次のかたちをつくるまでの仮のかたち。そのことを人間は本能で知っていた。言葉以前に支配していた感覚がすべてを知り尽くしていた。そのかたちを、深い慈愛のまなざしでみつめることにわたしは恐れない。」

    「言葉のなかでもっとも美しいものが愛である。
     わたしは、探しあぐねてたどりつくのが愛だと思っている。(中略)涙は悲しみだけでなく怒りにも喜びにも溢れてくる。くめどもくめどもつきぬ涙。涙はどうしてこんなにあついのか、わたしはいまもってわからない。(中略)求めているときには訪れず、遠くにあると思うときは近くにあり、不在と見誤る愛は、不可解であり、生なる者に限りない息吹を与え、なににも負けない強いこころを植え付ける。
     強くなるというのは、本能だ。生き抜くために強い力を必要としており、生命はそのために躍動し、生なる者の存在を祝福してくれる。この世に祝福できぬ生はない。生はすべて愛に包まれ、誇るがごとく強い光りに守られて生きている。
     わたしが求めてやまない奇跡である。」

     一人の人間の生命がこの世において織りなす色彩模様の、かたちと力。人生は色さまざまな、不思議の糸で織られた布をまとっている未知の旅人かもしれない。
     万華鏡の中にくりひろげられる、めくるめくばかりの変化の妙の美しさとともに驚異もあり、また常ならぬ一種のはかなさもあり、過ぎ去りゆく時間にただむなしさを感じることもしばしばあるであろう。
     富樫庸は「溶けていく一年」で次のようにうたう。

      ガウディの夢を見た
      溶けていく建造物を見た
      サグラダ・ファミリアのように溶けていく自然を
      わたしは見た
      自らの年輪がそのすぐ直前まで溶けていることに
      驚愕し、 
      時間に太刀打ちできぬ自らの生を
      深い憐憫のまなざしで見ていた

     知らぬ間に溶けていってしまう過去の時間、取り戻すことができない過去がタンポポの毛のように何処とも知れず飛んでいってしまう生の耐えられぬ存在の軽さを富樫は嘆く。
     レクイエムは、死者への哀悼の歌。死者の魂を鎮めるためにうたう歌。本当に死者の魂を鎮めることができるかどうかは別として、生きて在る者が死者へ心をこめて呼びかける悲歌であろうか。ひるがえって、生きて呼びかける詩人の立場に立てば、歌う詩人自身の揺れ動く魂を鎮める作用とはなるか。悲哀、悲愴、苦悩するこちら側の荒れ狂い、とまどう心を浄化していく力が作品に生まれるような気がする。完全ではないにしても、言葉が持つエネルギーが死者と生者の魂をともにやさしくつつみ、何かしらの名状しがたい高揚感をもたらし、人々を特異の高みに導いていくことはあるかもしれない。
     富樫庸の目は、やさしく澄んでいるようだ。
     冒頭に置かれた「1981年10月10日 岡原村にて」は、彼の義母の死後の魂へやさしく向けられている。

      半鐘はついに打ち鳴らされる
      予期せぬ祭日の朝に
      冬への旅立ち
      生者たちへの優しい微笑を残して
      いま
      岡原村を―翔ぶ

     微笑を残して旅立てる人は、しあわせであろう。故郷の空を翔んでいるかもしれない死者は、満足げに地上を見おろして、天の音楽など心ゆたかに聴いているかも知れない。
     詩の作品としては「再見」の次の詩節が好きである。

      一月の寒い日に訪れた円照寺
      玉砂利の門戸静謐なたたずまい
      遠いような虚無的な想いにかられ
      圧倒的な人の定めについて考える
      黄昏の長い道のりは
      もはやふりかえることのない
      悲しみの足跡に聞こえるが
      それはやがて
      無言に口遊まれる人々の
      讃歌のように
      ぼくは聴いたのだった

     ここに、私は富樫庸の死生観を見る思いがする。死は生を豊かにする海の満ち潮のようだ。また、豊かな生は充実した死の眠りをもたらすような気がする。死者へのレクイエムは、裏を返せば生命への讃歌である。
     最後に、「佐藤登起夫さんを悼む」のなかで富樫庸が引用している吉野弘の絶唱ともいうべき詩を紹介する。

      死ぬことを強いる時間は
      生きることを強いる横顔を持ち
      タクトをとって休みなく  
      秋のあまたの虫たちを残酷なほどに歌わせる
               (「鎮魂歌」より)

    #350

    飛鳥聖羅
    参加者

     青い鳥が翔んだ日(浜野伸二郎論)
    飛鳥聖羅

     《優しさ》

     浜野伸二郎が生まれ育った高砂市には、私も九年間住んでいたことがあった
    ので、その場所や町の空気は知っている。宝殿の石切り場や米田、阿弥陀、荒
    井、伊保、曽根、大塩の町に沿って広がる播磨灘の海が懐かしく想われる。私
    は曽根町で暮らしていたので、私の行動半径の中に、これらの町や姫路、加古
    川、明石の町並みも入っていた。

     浜野伸二郎が先天性脳性小児麻痺の身をもって、過去十冊の詩集を編んでい
    たことを知ったのは、つい先日の、二月二十六日の日曜日のことである。彼が
    十一冊目の詩集を出すということで、リトル・ガリヴァー社の富樫氏より、そ
    の十冊の詩集を見せていただいた。これも何かのご縁と想って、彼の詩につい
    て詩論を書かせていただくことにした。十冊の詩集の中では、最近の『梵鐘』
    と『情という字』がもっとも充実していると感じた。その『情という字』のな
    かの一篇に「みつばち」という詩がある。

     みつばちが一匹/ぬかるみに飛び込んで/もがきにもがいていた

     もがくほどに/泥にまみれて/飛び立てない

     藁しべをさしのべると/みつばちはつかまって/羽についた泥を/足で落と
    し/空へと吸い込まれた

     みつばちとの/出会いの後で/私は繰り返し/へんとうせんを/痛めて寝こ
    んだ

     その度に両親は/枕元に蜂蜜の瓶を置いた/鼈甲色の輝きは/食欲をきらき
    ら/そそるのだった

     よく観察していると思う。この詩を読んで、私は宮沢賢治の『貝の火』とい
    う童話を思い出した。そのなかに登場する主人公の《子兎のホモイ》が川で溺
    れているひばりの子を、自ら川に飛び込んで助けるのである。その子兎のホモ
    イはその後、ひどい熱病にかかって寝込んでしまうのである。病気が治った
    後、助けていただいた子ひばりの両親が、その鳥の王から託された「貝の火」
    という宝珠をたずさえてホモイを訪れる。王からの贈り物を頂いたホモイのお
    話はこの後長く続くのである。

     「みつばち」は、浜野伸二郎の優しさが浮き彫りにされている一篇である。
    この詩の出来事があった彼の年齢は定かではないが、おそらく少年時代の話で
    あろう。ゆかるみでもがき苦しんでいる姿は、浜野自身と重なって見える。困
    っている者を助ける、或いは苦しんでいる者に何とかしてあげたいという優し
    さが、彼の心の底から自然と湧きあがってくるのには、それなりの理由があっ
    たであろう。彼を親代わりに面倒を見てくれた叔母の存在は大きいだろう。こ
    の優しさが彼の生涯を貫く縦糸になっているのだ。みつばちを助けたお礼に彼
    は何を天から贈られたのだろうか。私はそれは詩を作る喜びだと思う。彼は
    「詩人」という生き方を手に入れたのだ。それは「貝の火」の宝珠に匹敵す
    る。

     《ポエジーの飛翔》

     メーテルリンクの『青い鳥』には、「未来の国」が登場する。「未来の国」
    には、これから生まれる子どもたちがいる。その子どもたちは誕生するとき、
    必ず何か一つ、自分が生きる世界に持ってゆかなければならない。たとえば、
    発明品や哲学、または平和の同盟等々、皆、未来を築く使命を抱いている。と
    ころで、その子どもたちの中の一人が、何を持って行くのかと問われて、得意
    げに「病気を持っていくんだ」と答えたのである。その子どもは病者として生
    まれいずることに胸を張ったのだ。人それぞれに使命があり、それぞれ幸福の
    すがたも異なる。

     仏教の教えに、「願兼於業(がんけんおごう)」というのがある。真実の仏
    法の力を証明するために、私たちは自ら願って宿業を背負ったのだと説いてい
    る。だから、このことを信ずるひとは、絶対に、悩みを乗り越えられないわけ
    がない。皆、この娑婆世界という舞台に登場し、人生のドラマを演じる主演俳
    優なのだ。

     悩みがないのが幸福なのではないかもしれない。自分自身に備わっている生
    命力で、どんな悩みも乗り越えられると心を決める。それが幸福への力なので
    あろう。真の幸福を知った人の心には「青い鳥」が強く羽ばたくであろう。

     浜野氏が影響を受けたヘレン・ケラーの言葉に「他人のために尽くそうと
    か、社会に新生命を打ち建てようという、私欲を離れた目的から永続的な確実
    な歓喜が生まれる」とある。友人をはじめ、周囲の関係する人々の幸福を願う
    清らかな睡蓮のような世界。そこにこそ真実の歓喜があるのだろう。浜野氏は
    歩けない足で、必死になって走っているのだ。否、戦っているといった方が良
    いかもしれない。

     彼が原爆詩人の峠三吉に触発されて、詩を書き始めたということだが、苦悩
    に喘ぐ人々への共感がそうさせるのであろう。

     さて、浜野伸二郎の詩の中で、もっとも完成度の高い詩篇を何篇か拾い上げ
    てみたい。

     美しいポエジーが鳴り響いている。わたしは、その詩篇が彼のこころの内側
    から《青い鳥が翔んだ日》に書けたのではないかと、密かに思っているひとり
    である。

     夕立がやんだ/穏やかな池の面に/眠るように浮かぶ

     手のひらを/向かい合わせ/大事を包みこんだ/ふっくらした蕾

     息をひそめ/耳をそばたてて/願いごとをひとつ

     しのび足の風が/花の扉をたたいている (『すいれん』)

     まるでちいさなおとめごが可愛いしぐさの合掌をして、なにかしら願い事を
    している、そんな風に睡蓮のふっくらした蕾を見た。夕立のやんだあと、忍び
    足でそっと吹き寄せた夏の夕暮れ時のそよ風が睡蓮の花の扉をたたいている。
    なんと美しい情景であろうか。

     秋日に染まった木は/どこだろう/まだ青いさざ波の海で

     地べたに丸まった木の葉は/巻き貝

     黄ばんだ空気が/深呼吸すれば/カラカラ/路地を転がっていく

     雲の潮が流れ/しぐれがよぎる/行き交う人は/首をすくめ/肩に木の葉を
    からませたまま/散り散り波間を遠ざかる (『しぐれが来て』)

     陸地と海の結合だ。林や森のイメージと海のイメージの結合だ。また、雲の
    潮と歌っている。天空と海の結合だ。青い漣の海に、秋の日に染められた樹木
    を見ている。逆に、大地に散り敷いた木の葉に、海の巻き貝を重ねている。晩
    秋の黄ばんだような空気が深呼吸して風が起これば、木の葉の巻き貝がからか
    らと音をたてて地面を転がっていく。しぐれがよぎる寒さの中を行き交う人
    は、青い漣のようにさやさやと鳴る樹海の木々の波間を遠ざかっていく、引き
    潮の孤独の海潮音を後に残して。

     百合のつぼみは/むっくりとふくれた/さなぎ

     さなぎが/花の精を吸い取って

     白い体を食い破るように/そろそろ寝返りを打って

     花が咲く前夜/ほら/さなぎが羽化をするよ/記憶をこわす音を立てて 
    (『百合のつぼみ』)

     百合がつぼみから花びらを開くさまを、昆虫のさなぎが羽化するイメージに
    重ねている。草花と昆虫の結合だ。まるで蝶がさなぎの時代の記憶をこわしな
    がらゆっくり羽化をするように百合が花開く。詩の面白さがここにある。見慣
    れた関係性を打ち壊し、遠い関係にあるものをつなぎ合わせる。関係付けてい
    く。あるいは融合させていく。優れた詩人はこれができる。そこに、いままで
    になかった新しい関係性をつくり、新しい美学の窓を開くのである。現実はつ
    まらない。現実の事物を基調にしながら、そこに新しい超現実の夢のような世
    界を開いてみせるのが詩人の仕事である。この世のものから、この世のものな
    らぬ世界を窺い知るのである。この世のものから、この世のものならぬ世界を
    垣間見せてくれるのが芸術の世界であり、文学の仕事である。なかんずく、詩
    人の仕事は、通常の見える世界から、通常見えない世界をこの世の戸口に引き
    寄せて、垣間見せてくれるのである。現実と超現実の橋渡し役が大事だ。自然
    と超自然が渾然一体となっている作品が魅惑のあるものとなる。超自然、超現
    実、この世のものならぬ世界、地上のパラダイス(楽園)、まほろばの里、ア
    ルカディア、桃源郷、エルドラド(黄金郷)、浄土、仏国土、いろいろ言葉は
    あるが、見えない世界を見える世界にしてくれるのが詩人の仕事である。不在
    の現前である。存在と不在が交わるところ、この二つが渾然一体化していると
    ころ、それが詩である。詩人の見えない内部の世界が詩という形で外部の世界
    に顕現してくる。死者の世界と生きているものの世界の関係性、現実という垣
    根に遠い関係にあるものの結合によって風穴を開けて、そこから《永遠》を覗
    き見るのである。読者をこの世のものならぬ世界の《永遠》にいざなうのが詩
    人の役目である。歌舞伎や中国の京劇を思い返してみると良い。芸術というも
    のはなんと不思議な世界ではないか。サーカスの曲芸団に空中ブランコがある
    が子供のころ、あれを見て感動し興奮した記憶を持っている人もいるだろう。
    フィギュアスケートの種目で金メダルを獲得するような人の演技を見たなら
    ば、背筋がぞくっとするくらい感動を覚えるだろう。それは、この世のものな
    らぬ世界に、すなわち、美の極致に人々を惹きつけ、魅了するからであろう。
    だれもできる可能性をもっているが、現実にやれる人は少ないのである。だれ
    もが詩人の種子を内側に秘めているが、現実に詩人として空中の綱渡りを演ず
    る軽業師や言葉の魔術師にはたやすくはなれないのである。

     裏庭で/こっそりと秋が咲く

     陽だまりの裏庭に/置き忘れた種袋から/寂しさの便りが/風に乗っていっ
    たのだろう

     確かにぼくは/部屋の窓から望む/夏の勢いばかりが/気になっていました

     きっとこんなふうに/いくつもの置手紙/それぞれの季節ごとに/拾い忘れ
    て/失った言葉の残像を/繋ぎ合せられないままでいる (『置手紙』)

     ダリアやコスモスや菊の花や咲いているといわずに、「秋が咲く」という。
    なんという心憎さだろうか。それぞれの季節がくれた贈り物の置手紙を拾い忘
    れて、失った言葉の残像を繋ぎ合せられないままでいる。新しい季節が近づい
    ているのに、それと気づかずにいる。あまりにも、こっそりと、裏庭で、人に
    知られずに「秋が咲く」ものだから。裏庭に置き忘れた種袋には、コスモスや
    菊の種ではなく寂しさという種が詰まっていたのだ。秋の陽だまりの裏庭に
    は、人を物思いにふけさせたり、物寂しくさせたり、ものがなしくさせたりす
    る魔法のような種袋がいくつも隠されているのかもしれない、裏庭の材木作り
    の古びた物置小屋の中で。

     《自己像》。

     彼は、若いとき、整形外科の主治医から、長くて二十五歳ぐらいまでの命か
    もしれないとの死の告知を聞かされる。彼には死の宣告にも等しいものであっ
    たろう。いつも背後に死の影がちらついているのである。未来が箱の中に閉じ
    込められて出てこないのである。恐怖や不安がどれだけ人間の行き方に暗い影
    を投げかけるか、計り知れない。そんな中でも、若い日の詩人は、詩を作るこ
    とに希望を見出したのだ。身の回りの世話をしてくれるいい人にもめぐり合っ
    て、結婚をした。彼の人生が少しだけ前へ踏み出した瞬間であった。

     どこにたどり着くかわからない旅が始まった。まさに「いのちの森」をゆっ
    くりゆっくり迷いながらも歩き始めた。自分にしっくりした言葉を捜しながら
    の旅である。

     四十二歳のとき、先天性脳性小児麻痺の後遺症である強度の頚椎症を患い、
    彼自身で機能させうるのが左手の中指だけとなった。キーボードも使えなくな
    ったので、彼用に改良を加え、マウスだけで画面上の文字盤を一字一字入力し
    ていく方法に変わっていったのである。今ではずっとこの方法を取っていると
    いう。こうして、過去十冊の詩集を編んできたその労苦に頭が下がる。

     自分の気持ちや/自分の思いを/言い表せる言葉は/簡単に見当たらない
    (中略)葉を振り払った/木は平然と立っている/わたしが/葉を繁らせようと
    しているのを/見下ろして/だが、わたしは言葉を探していく/ぴったり背丈
    に合った/服を作れる日まで(『言葉探し』)

     何処に辿り着くか/誰に会えるのか/なにも判らない/今日も森の中を進む
    (中略)木漏れ日を頼りに/いのちの森を歩いていこう/迷い迷いながら/ゆ
    っくりと (『いのちの森』)

     この「いのちの森」を読むと、彼の人生の主調音が聞こえる気がする。暗い
    うっそうとした森、それはある意味で、彼自身の人生の道なのかもしれない。
    時々は道に踏み迷う。時にはその森が、密林にもなり、湿原地帯にもなり、草
    原にもなり、雪原にもなり、田園にもなり、故郷の町並みにもなるのである。
    活字の森、文字の森、詩歌の森のなかを、彼はゆっくりゆっくりと歩む。「木
    漏れ日」とは何であろうか。それは、妻の温かい微笑であり、介護であり、叔
    母や叔父の思い出や言葉であったりする。うっそうとした森に零れ落ちてくる
    その日の光を浴びて、彼は生きる力を振り絞る。どこに辿り着くかしれない森
    の中の旅路。それでも「芽生える時がある/あらゆる思いの種子に/耳を傾け
    ながら」彼自身「今日も森の中を進む」のである。

     箱の中に何があるのか

     恐る恐る箱を開けると/箱の中は空っぽなのに/確かに私には見えた

     無言の箱は/未来はあるのか/と 言って/そっぽ向く

     私の未来を/箱の中に押し込んだ時から/見えたり見えなくなったりする 
    (『箱の中』)

     電動車イスに乗りながら、外の景色を眺めながら、様々のものを見て、それ
    を自分の内部に取り込んでいったのである。すいれん、カンナ、たんぽぽ、彼
    岸花、水仙、ダリア、バラ、百合、さざんか、キンモクセイ、さくら、爪切草
    など、見たものの中に自分を重ね合わせているのである。その数編を引用す
    る。

     家の中にいては書けない詩篇である。彼の詩人としてのまなざしは外の世界
    を見ながら、自身の内側にもきちんと向けられている。そのまなざしは、温か
    いし、澄み切っている。そのまなざしは、輝いているし、燃えている。

     草の上に寝転んだ/とても温かだった/きっと今の私よりも/ずっと純粋で
    透明

     季節外れの花のように/私はひとりぼっち/空を見上げるたんぽぽ

     (中略)判って下さいなんて/私には似合わないから/白い綿毛になり/風に
    乗り一緒に/遠くへ旅に出たい (『たんぽぽ』)

     真っ赤なカンナに/なってみたい

     カンナになってみたい/汗臭い体をボロリと脱いで (『カンナ』)

     畦道には彼岸花が/めらめら燃えて/連なって咲き誇っていた

     危うく失いかけていた/体内の血の気に/点火して飛火してくる (『彼岸
    花』)

     しあわせは/気ままな猫のようだ/捕まえようとすると/逃げていくけれど
    /諦めた頃戻ってくる (『しあわせは』)

     外界の事物との出会いによって、彼は幸せを感じるのであろう。捕まえよう
    とすると逃げていくけれど、忘れた頃にひょいっと顔を見せる猫や友人のよう
    に、自然の草木であったり、妻の仕草であったり、もろもろの現象の奥に秘め
    られたイメージが立ち上がってきたとき、彼はおそらく幸せであるのだろう。
    それが詩に結晶していくのだ。

     今からおいらは捜しに行くところだ/どこかで見失った/おいらの魂を見つ
    けに行くのだ/あてもなく終りも知れぬ旅へと/おいらは一人出かけるのだ/
    ひたすら叫び続けながら/広い地球をさまよい歩く (『魂を返せ』)

     いのちの森の中で、どこかで見失った自身の詩魂を捜す旅にでかけ、ひたす
    ら叫び続ける。砂漠のような地球の大地の上で、真実の自己を求めて昼夜を分
    かたず歩きつづける。

     愛など無縁といいました/金など不要といいました/夢など無用といいまし
    た/もう動かない/もうしゃべりもしない/いつの間にか/匂いもしなければ
    /音も聞こえなくなりました/だからボクは/それを削ってゆきました/根こ
    そぎ落としてゆきました/なんとなく楽しくなったので/ついでに腕も無くし
    ました/だるまさんになったボクは/コトンと倒れてしまいました (『梵
    鐘』)

     「なんとなく楽しくなったので/ついでに腕も無くしました」

     この詩句は本当にすさまじい。これは誰にも書ける代物ではない。苦悩を突
    き抜けた先の楽しさがわかる境地であろう。口も目も鼻も無くして、足も手も
    腕も無くす。けれども大事なのは、「心」である。心の目で見、心の耳で聞
    く。心の足で歩き、心の手で触り、彫り刻む。心が強ければ、何物にも負けな
    い。強靭な心が大事だ。強靭な個人を作るのが大事だ。彼は、強い自己を持ち
    始めている。
     問題は、その大切な「心」がどちらを向いているかだ。
     前を向いているのか、後ろを向いているのか。善の方を向いているのか、悪
    の方を向いているのか。美の方を向いているのか、醜の方を向いているのか。
    文化の方を向いているのか、武力・暴力の方を向いているのか。平和の方を向
    いているのか、戦争の方を向いているのか。愛の方を向いているのか、嫉妬・
    裏切りの方を向いているのか。正義の方を向いているのか、背徳の方を向いて
    いるのか。浜野伸二郎は、常に前者の方に位置していると見える。「心こそ人
    間を高めるものです」とは、モーツァルトの言葉である。芯の一本通った強靭
    な心によって磨かれ、高められた人間性ほど豊かなものはない。そのような人
    間の中にこそ豊饒の海は波打ち、広がっているものだ。

     彼の詩篇に現れるユーモアのセンスのよさはその現れであろう。山を乗り越
    えた人の強さである。山の頂上を征服した人の境地である。爽快さがある。凛
    然としたものがある。彼が山茶花の花に見たような凛としたものがある。楽し
    さがある。愉快である。頭上にはいつも青空が煌いている。漂う雲は白い。そ
    こには一羽の白い鳥の大いなる羽ばたきがある。勇気が湧いてくるようなはば
    たきがある。希望が翼を広げて舞い踊っている。そんな境地だ。

     「私は眩しい青空の下で/洗いたての日差しを/全身に浴びて始まる朝/じ
    んわりスルメになる」(『のしスルメ』) 

     なんという明るさだろうか。彼には眩しい青空がよく似合っている。
     彼は人生の始まりから苦労を背負い込んでいる。
     文豪吉川英治がある青年に語った言葉がある。
     「君は不幸だ。早くから美しいものを見過ぎ、美味しいものを食べ過ぎてい
    ると云う事はこんな不幸はない。喜びを喜びとして感じる感受性が薄れて行く
    と云う事は青年として気の毒な事だ」(『吉川英治とわたし』講談社)
     彼はこの青年のようではなかったから、逆に自然を見て喜びを感じる感性を
    磨いていったのであろう。その電動車イスの生活の中で、ある意味で牛のよう
    に、人生の意味や、詩の価値を咀嚼しながら、ゆっくりとした速度で歩いて生
    きた。

     だんだん陽が高くなる/妻が籠一杯の衣類を/物干し竿に掛けていく

     吸い込まれるように/電動車いすで屋外へ

     湿った布を/背伸びしながら/パンッと音をたて/洗濯物がひるがえる

     私は眩しい青空の下で/洗いたての日差しを/全身に浴びて始まる朝/じん
    わりスルメになる (『のしスルメ』) 

     《妻との絆》

     彼の人生を支えた妻との出会いと結婚。彼が道を過たず進んできた陰には、
    夫人のかいがいしい世話があった。

     私に何が出来るだろう

     なんとかして/おまえに喜びを与えたい

     春の陽射しが/氷をゆっくり溶かすように (『今の私に』)

     「わたしに出来ることは/少しでも体を休ませたい/そして以前のように/
    二人でこころから笑いたい」(『今の私に』)と彼は綴る。夫人には体を休ま
    せてあげたい。そして二人で思いっきり笑いあいたい。お互いの思いやりの温
    かさがにじみ出ている。「笑う」ということの思いの深さ。後で記すが、「ユ
    ーモア」を生み出している思いの強さと深さが詩に輝きをもたらし、彩りを添
    えている。

     おまえに巡り合った/人生の奇妙な悪戯

     寝返りも出来ない/衰えていく私の体を/守って来てくれたおまえ/二十三
    年目の朝/冷たくなりかけ/壊れる寸前の/魂が凝縮された卵/おまえの暖か
    な体に/包みこまれながら/今年も孵化を迎える

     白みはじめた/空に向かって飛んでいこう/私の奥から一直線に (『孵
    化』)

     「冷たくなりかけ/壊れる寸前の/魂が凝縮された卵」であった彼を温かく
    包みこんでくれた母鳥のような妻の暖かな体、それがあって、自己の詩魂が殻
    を破って踊りだし、羽ばたき、巣立つことが出来るのだ。孵化した鳥が「私の
    奥から一直線に」白みはじめた夜明けの空に飛んでいく。孵化した鳥は彼の魂
    である。詩心である。あらゆる思いの詰まった人間性である。闇が深ければ深
    いほど暁は近いのである。

     卵の殻を割って出てきたのは、詩魂の鳥である。私はそれを「火の鳥」と名
    づけ、「青い鳥」と呼ぶ。浜野伸二郎が『孵化』を書き得た日こそ、青い鳥が
    彼の生命の内奥から翔びたった日である。「生きたい」「生きるんだ」という
    強い内面の声にいざなわれて、孵化の時を迎えたのだ。生まれ出た火の鳥は不
    死鳥である。青い鳥は自由を束縛された孤独の魂が、慈母のような親鳥に懸命
    に守られ温められて、ようやく生命の自由を勝ち得た幸福と勝利の象徴であ
    り、躍動するいのちの輝きである。その羽ばたきは、行動する生命であり、行
    動する生命に愛は生まれると言える。愛とは行動することだと言える。彼は愛
    の熱と火によって蘇生したのである。

     彼は『孵化』によって、長く無明の殻の中に閉ざされていた自己自身の魂を
    解放した。これは、まさしく魂の独立であり、魂の勝利であり、魂の飛翔であ
    る。これほどの幸せがあろうか。

     妻に対しては筆舌に尽くせぬ感謝の思いがあろう。彼は生きている証とし
    て、詩を創っている。彼のいくたびもの呻吟してきた日々、濃霧や雨雪に閉ざ
    されたような暗い日々、曇天にいつも覆われているような日々を突き抜けて、
    ようやく辿り着いた黎明の朝である。その晴れやかな空の下、彼は生きる喜び
    を手に入れたのだ。苦吟しながらも価値を創造しゆく人生ほど楽しいものはな
    い。詩の価値は何物にも代えがたい価値であり、無償の価値である。

     情という文字は/ボクの気にいった字/りっしべんに/青

     さざなみの若葉が/空を青く染めている/風通しのよいトンネルの下を/ボ
    クは/青く染まって泳いだ/多鶴子のスカートは/背びれになってはしゃいで
    いた

     ボクは/情という字が好きだ/多鶴子との絆をつなぐ/青い季節がやってき
    た (『情という字』)

     空を青く染めているのはさざなみの若葉、空と海の結合だ。トンネルは海底
    だ。妻のスカートが魚の背びれなのだ。なんとさわやかで美しいイメージだろ
    うか。ここでも彼独特のポエジーが煌いているではないか。

     少し曇って/肌寒い朝/ひとりで散歩する

     赤い爪切草が/色鮮やかに咲いている/思わず電動車イスを止める

     妻が長くのばした髪の毛を/束にしてくくっている紐のようだ/爪切草をち
    ぎって/妻の髪にそっとつけたい (『爪切草』)

     妻が髪の毛をくくっている紐のような爪切草。それを摘んで彼女の髪につけ
    たいと想う。思いやりにあふれたひとこまである。

     《ユーモア》

     「微笑は大なる勢力なり、春の風の如し、心の堅氷を解くの力あり」(『内
    村鑑三著作集 第6巻』岩波書店)

     これは、哲学者・内村鑑三の言葉である。浜野夫人の春風のような微笑の力
    が、どれほど浜野氏を勇気付けておられることか。ある一面ではどこか冷え切
    った心の堅氷を抱いているような痛苦の人生を余儀なくされている浜野氏では
    あるが、夫人の温かな反応によってどれだけ救われているか計り知れないもの
    があるのではないか。彼の数々の詩篇のなかにちりばめられているユーモアを
    覗いてみれば、こちらまで、夫人のことばに、そうだよね、と頷いてしまう。
    その何篇かを紹介する。

     じっとしていても/肩が差し込む

     ストーブの前で/交差させる編み棒を/せっせと動かす妻が/おおげさやな
    あ と/言って立ち上がる

     (中略)

     急に寒くなったからか/あんたが年とったからや/肩凝りの辛さ判って/い
    い気味やわ

     肩をもみながら/ハイ もうええやろ/と 肩をパチッと叩いた (『ザラ
    ザラの手』)

     死ぬとこ/助かったわ/死ねばよかったのに と/妻がいう

     その口の下で/あんたの笑顔いいわ とくる/私はどぎまぎして/おちょく
    らんといて と/照れかくし (『窓の外では』)

     毎朝、今日はワープロで詩の一連でも打とうと/意気込んでキーボードを打
    ちかける/なにくそと一字打つと/手が震えてなかなか次に進めない

     なにしとんのよ/そやから あんたのワープロは高いおもちゃやと/妻のか
    ん高い声

     今に私の物にしてやるから/覚えとけ/多鶴子のバカ (『多鶴子のバ
    カ』)

     ギャーと/妻が悲鳴をあげる/百足、百足 と/湯上りのすっぽんぽん姿で
    /素早くガスの火をつけ/火箸で百足を焼く

     (中略)

     忘れとった/わたし、えらい格好や/われに返った妻は/顔を赤らめ/風呂
    場に飛び込んでいった (『むかで』)

     妻の明るさと、無邪気さと、さわやかさと、そして強さと逞しさが現われて
    いる作品であろう。彼を力づけ、勇気づけてくれている妻の表情がひときわ輝
    いて見える。お互いに裸の魂を見せているのである。そこに、なんとも名状し
    がたい面白さと強い明るさが立ち現われているのだ。

     《詩作》

     アメリカの社会運動家エレノア・ルーズベルト。彼女は「世界人権宣言」の
    起草者である。彼女が強調している点をひとつ上げれば、歴史上の偉大な人物
    でさえ、多くの人々の協力がなければ仕事を完成できなかったのだということ
    である。
     彼女は言い残している。
     「世の中には一人でできることが比較的少ない」
     「だからこそ、個性を伸ばすことと並んで、他人と協力することも同じくら
    い大切なこととなるわけで、また、そのためには、他人について学ぶことがぜ
    ひ必要になってくるし、他人とのつき合いの中から最善を引出すことも学ばな
    ければならなくなってくる。
     文明社会のあらゆる人間関係の基となっているのは、相互の尊敬である」
    (佐藤佐智子・伊藤ゆり子訳『生きる姿勢について』大和書房)

     「個人として認められたい気持はだれにでもあって、これを無視してはなら
    ない。
     自分がだれとも判ってもらえないとき、人は根なし草のような気分となる」
    (同)

     お互い同士の協力と尊敬がその人が持っている力を倍化させるのではないだ
    ろうか。
     浜野氏の詩作にかける情熱は並大抵のものではなかっただろう。常に死と隣
    り合わせで詩を書いてきたのだから、葛藤、不安、痛苦、懊悩、孤独等の波し
    ぶきを浴びながらの連続闘争であったかもしれない。まさしく、彫るように書
    いてきたのだ。自由にならぬ指先を見つめながら、その指一本でキーボードを
    叩く。どんなにやり切れない思いをしてきたことだろうか。まさに血の一滴を
    絞り出すように、書いてきたことだろう。ベートーベンの「苦悩を突き抜けて
    歓喜に至れ」の言葉が浮かんでくる。
     ロシアの文豪ゴーリキーは記している。
     「人間が人生を妨げるものと闘う時、人生はより満たされ、輝く」
     困難や試練が何もないのが幸せなのか。そうではないだろう。苦難と戦うか
    らこそ、人生の深さというものがわかるのだ。自己自身の境涯が本当に大きく
    広がっていくものとなる。鍛えられていくのである。
     ゴーリキーは言う。
     「人生には、二つの生き方しかない。堕落する人生と、燃える人生である」
     心が燃えているか、いないか。確かな目標を目指して、情熱を燃やしている
    か、いないか。情熱を失ったとき、人間は堕落の方向に向かってしまう。何歳
    になっても、心の炎を消してはならないだろう。
     浜野氏は、彼岸花に炎を頂いた。赤いカンナの花になりたいといった。
     ゴーリキーは言う。
     「私は幸福というものを知っている。おお、戦う幸福よ!」
     幸福は、いったい、どこにあるのか。波も嵐もない、安閑とした生活のなか
    に、本当の幸福はない。幸福は、「戦い」のなかにある。たえざる前進のなか
    にある。

     指先や肘から/幾度も血を出した/ほんとうに/彫るように書いてきた

     そうして/無理がたたって/とうとう/完全な口述筆記/下書きすらも書け
    ない

     何となく/感覚がつかみにくい/鉛筆のもてる/手がほしい (『口述筆
    記』)

     ボクの詩の/一行一行が/汗の結晶なのです/生命の証なのです

     (中略)

     ボクの詩は/どれも/私の体内を通って/ふと浮かんだものです (『ボク
    の詩』)

     《身体》

     スペインの人権活動家コンセプシオン・アレナルは言う。
     「苦悩は人間にとって偉大な師である。時には涙を流し、またある時には涙
    を拭うことにも尊い教訓がある」と。
     浜野氏の身体については、われわれの計り知れないものがある。彼はそれを
    様々な比喩で書き表わして見せた。時には、串刺しスルメであり、蟹であり、
    こんにゃくであり、のしスルメであり、石ころであり、卵であり、梵鐘であ
    る。

     風がうなり/プラスチックが転がる音に/犬が吠えている

     身体は宙に強張り/布団に添って/くねることもできず/串刺しスルメにな
    る (『串刺しスルメ』)

     外から帰ってきた/私は/冷凍のカニ

     体中コチコチだ/風呂の沸くのを/まだか まだか と/せきたてる

     そんなに早う沸くかいな と/ベッドで横たわるカニをにらむ妻

     幾重にもなった皮を/手ぎわよく/ひんむいていく妻/ゴツゴツの中身を抱
    きあげ/手早く湯につける

     ゆでると/赤みをおびてくる/か細い傷だらけのカニは/麻酔をかけられ/
    やがて/睡魔が襲う

     湯船の背に体をあずけ/半開きの口から/いま私はアワを吹いている 
    (『蟹ゆで』)

     湯船につけ/丹念に/強張った体を/もみほぐす

     棒のような全身が/やがて/こんにゃくになっていく (『こんにゃく』)

     《少年時代》

     ある日/親戚の子どもが/泊まりにきて/無造作に置かれた/麦わら帽子が
    /風に飛ばされた

     わたしは縁側に/ひとり残された/飛ばされて/みんなの所に/行きたいと
    想った (『縁側』)

     自分も麦わら帽子のように風に飛ばされて、みんなのいるところに行きたい
    と想った少年時代。しかし、自分は素早くは動けない体なのだ。残念でならな
    い。悔しくてならない。そんな思いであっただろう。

     《友情》

     車いすを押し私を背負い/笑顔も汗もが滴るように/私の心の底に落ちてき
    た/私の心の中に住みついて/人を想い労わる素晴らしい/空間を態度で教え
    てくれた

     おまえは/結局は疾風だった/私の心にとどまらないまま/私の想いを置き
    去りにして/川底に消えたおまえが憎い (『疾風のおまえ』)

     友は、「川でおぼれた子どもを助け/自分は増水した水に流され/帰らぬ人
    になった」(『台風無情』)

     「川底に消えたおまえが憎い」とは、もっともっと長く生きていて欲しかっ
    たという思いの裏返しである。「人を想い労わる素晴らしい空間」という表現
    が美しい。「私の心の底に落ちてきた」滴る笑顔と汗。それが、いつまでも一
    緒にいたいと想った「私の想いを置き去りにして」台風で増水した水に流され
    て、川底に疾風のように消え去っていった「おまえが憎い」のである。その友
    は川で溺れた子どもを助けたのだ。そして、その友は、「帰らぬ人になった」
    のである。本当に憎いのは友ではないだろう。台風という自然現象ではない
    か。その台風に出会った友の運命はいかんともしがたいものであっただろう
    が、浜野氏にはいたたまれない気持であったのだろう。友情の深さを感じる。

     《叔母の思い出》

     内村鑑三は次のように述べている。
     「草木はすべて其生命の源なる太陽に向て其枝を伸し其花を開く者である」
     「草木は人に見られんとして其花を開くのでない、太陽の光に引かれて、恰
    かも其恩に報いんがために、太陽に向て之を開くのである」(『内村鑑三著作
    集 第7巻』岩波書店)
     太陽の恩に報いて野に咲く花のように、注目や華々しい喝采はなくても、
    人々の恩を感じ、恩に報いていく人生。浜野氏には、それが叔母であり叔父で
    あり、夫人の恩ではないだろうか。太陽の照りつける叔母の墓にむかって、
    「お母ちゃん」と呼ぶその一言になんともいいがたい重みがある。また「夜の
    故郷」では、そのおばの温もりが月光のように詩人を包み込んでいく。

     生まれつき体の不自由な/伸二郎ちゃんの世話をしてくれる/優しいお嫁さ
    んがみつかるまで/死んでも死にきれへんと言うていた叔母

     大声で/お母ちゃん、お母ちゃん/僕も連れて行って/親代わりになって育
    ててくれた叔母の/布団の端を握りしめて/お母ちゃんと泣いた

     (中略)

     太陽の照りつける叔母の墓に/線香をあげながら/なつかしいあなたの名前
    をよぶ/お母ちゃん (『命日』)

     必ず命日には訪れる/あなたに会いたくて/今もあなたの教え/人を愛し慈
    しみ/清いこころを持ちつづけ/気丈夫に生きていくこと (『故郷のあな
    た』)

     歩けない私を/おんぶして/親代わりになってくれた/おばの温もりが/じ
    んわり/浮かんできて/月光に包まれる (『夜の故郷』)

     《勇気》

     降り立つところを決めかねて/何度も何度も一羽の鳥は/水面で羽ばたいて
    いる

     安らぐ場所を求めているのか/それとも餌を求めているのか

     晩秋の昼下がり/その一羽の白い鳥/どこへともなく消えていく

     私のなかに/ばっさり/勇気の羽音を残して (『羽ばたき』)

     《父》

     父を恨み、別れる時に/父の今までの/冷たい仕打ちの数々を/涙ながらに
    罵った

     (中略)

     父は死んだと/言ってきたが/噂を聞くと/九十歳近くになった父に/ひと
    目会って/お父さんと呼んでみたい (『父』)

     両親のことは「みつばち」と「父」の作品にしか出てこないが、長年恨んで
    きた父に対して、「ひと目会って/お父さんと呼んでみたい」と言う。父を彼
    は許したのであろう。相手を許すことによって、自分自身が救われたのであ
    る。大きな心である。ペルーの女流作家マト・デ・トゥルネルの言葉に「人生
    は戦いなのです。正義を葬るのは、無知の証なのです。どんなことにも屈しな
    いことこそ、勝利なのです!」とある。
      何事にも屈しない。負けない。粘り強く、前へ前へ進んでいく。それが勝
    利の命なのだ。浜野氏の作品には、その人生に屈しなかった爽快な勝利感が漂
    っている。

     《素晴らしき哉、人生》

     彼の詩に「生きようよ」という作品がある。

     若妻らしい人が医師から、聞き慣れない病名を告げられる。「死にはしない
    が/回復は望めない」と。作品では若妻自身の病気なのか、家族の者の病気な
    のかは見定めがたいが、診察室から出てきた彼女の顔は、「血の気をなくして
    /青白くくすんでいた」。浜野氏はその後を綴っていく。

     「わたしも同じなのだ/全く歩くことも/いざることさえ出来ない/薬を飲
    みながら/どうやらこうやら/それでも生きている」と、日常生活の厳しい現
    実である。長い長い壮絶な人生である。しかし、どこか、それに打ち勝ってい
    る秘められた力を、彼は携えて生きているのだ。それが、この「生きようよ」
    という詩に現われている。それが最後の一連である。

     帰り道にある橋の上で/さっきの人が川の流れを/じっと見つめて立ってい
    る/潮の香りの風に吹かれて (『生きようよ』)

     この情景は何を物語っているのだろうか。若妻の懊悩の果て、思いつめて川
    に身投げをしようと考えているのか。それは判らない。川は人生そのものであ
    ろうか。一瞬としてとどまるときはない。水は流れてやまない。水源から渓流
    を下って、大河となり、やげて大海原に注ぎ込んでいく。潮の香りを微風が運
    んでくる。時には嵐の逆風が吹き荒れる。いつも順風満帆の時ばかりではな
    い。むしろ苦しみを味わう時間の方が多いのが人生である。
     しかし、「逆境の中にこそ、それ相当か、それ以上の利益の種が宿ってい
    る」と、ナポレオン・ヒル博士は言っている。逆境の中で試練を受け、それに
    負けずに乗り越えた人の生命は強いだろう。浜野伸二郎にとって利益とは何で
    あろうか。それは、詩を作る喜びを見出したことであり、詩作に人生の価値を
    見つけ、人に尽くす人生を勝ち得たことであろう。普通、人々は、安逸と惰性
    と怠惰に陥りがちである。そんな中で、彼は死と隣りあわせで生きてはいる
    が、慈しみの心をもって人に尽くしたいという思いが強く、それが詩作の源に
    あるのだ。その慈愛の深さが原動力となって、彼を前へ前へと駆り立てている
    のである。
     彼はその「若妻」に、思いもかけない病気なんかに負けずに「生きようよ」
    と、心の中で呼びかけている。それはとりもなおさず「自分自身」に呼びかけ
    ているのではないだろうか。たとえどんなことがあっても、共に手を携えて、
    生きていこうよ、と希望の暁鐘を鳴らしているのである。
     「生きたい」という願望を持つことは、決して恥ずかしいことではない。人
    間として当然のことである。普段、人はそれをあまり意識していないのであ
    る。

     アメリカの名匠フランク・キャプラが作った映画に『素晴らしき哉、人生』
    というのがある。人間の尊さと人情の温かみを伝える作品である。
     ある男が、苦労が報われない人生に憤り、橋から身を投げようとした。しか
    し、その男は、不思議な力を持つ老人に救われる。男はいつも、生まれてこな
    ければ良かったと嘆いている。老人はそんな男に対して、男がこの世に生まれ
    なかったら、取り巻く世界はどうなっていたかを見せてやる。それを見た男
    は、現実社会で多くの人を支えていた事実を知り、再び人生に価値を見いだし
    ていくという物語である。

     人間なら、誰もが、その人でなければならない使命をもっている。だが、苦
    悩や悲しみに負けて自分を見失うときもある。そんな時はどうしたらよいのだ
    ろう。そんな時は自分の周囲に思いをやることだ。そして、その人間のいる中
    に入っていくことだ。人から報われることより、人に尽くすことに喜びを見い
    だす。その時、人間は自らを取り戻せるのだ。浜野伸二郎がそんな風に言って
    いるように、私には聞こえるのである。

     十一冊目の詩集を出される浜野伸二郎氏に、戦後「荒地」の中心的メンバー
    として活躍した田村隆一の詩『帰途』の中の一節を贈りたい。

     あなたのやさしい眼のなかにある涙/きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦/
    ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら/ぼくはただそれを眺めて立ち去るだ
    ろう
     
     あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか/きみの一滴の血に この世界
    の夕暮れの/ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

     (中略)

     ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる/ぼくはきみの血のなかにたったひと
    りで帰ってくる

     今、私には見える、浜野伸二郎と多鶴子さんの二人に、そよそよと、常楽我
    浄の四徳の風が吹き寄せてくるのが。さいごに、二人に贈りたい。「冬は必ず
    春となる」という言葉を。

    #351

    mariko sumikura
    キーマスター

    青は死のイメージというので、そのグラデーションを万華鏡でみればどれほど美しいことか。サマルカンドの青のモスクを思い出しました。

    #352

    mariko sumikura
    キーマスター

    この作品論を読んで、浜野さんの詩集が読みたくなりました。もう出版されているしょうか?
    よい詩人を紹介してくださり、ありがとうございました。

    #365

    飛鳥聖羅
    参加者

    太田充広詩集『牛頭の海』地獄篇の研究(1993年3月)
    飛鳥聖羅

     詩集『牛頭の海』(ごずのうみ)が発刊されたのは、1973年3月1日である。いまから約20年前のことである。印刷したのは、太田充広(おおたあつひろ)の詩友・岸本康弘氏が経営する《岸本アート印刷》である。限定五百部の発行となっている。発行人・東渕修。発行所・地帯社。

     太田充広は、1948年9月29日堺市に生まれ、処女詩集『牛頭の海』発刊当時は、若き24歳の青年詩人だった。

     この詩集の巻頭を飾っているのは、難解極まる詩篇《地獄篇》であるが、当時「地帯社」から発行されていた同人詩誌『銀河詩手帖』1972年5月号(太田充広特集号)に、掲載されている。『手帖』の4ページから21ページにわたる長編叙事詩である。太田充広23歳の時の作品である。天賦の詩人といわねばならない。

     その特集の中で、詩友の富樫庸は「太田充広試論」を書き、村田修は「太田充広作品について」を書いている。

     富樫庸は、その『試論』のなかで次のように語る。

    「太田充広の場合、私は多弁を用意してその詩作の根拠を探るには多くの困難さを感じる。と言うのは最近の詩作品のなかに、あるテーゼを定着すべき、解決の糸口が判然と掴みえない事情によるものであるが、それでも『灯台』『樹の渕』『ダムダムの浜』『港』『カリスの背中』の五篇は比較的理解されやすい作品と思える」と。

     また「この『牛頭の海』の場合、果たしてそれ(詩的言語の抒情性)のみにて言い尽くされるのか判然としない。本来ある抒情性とは、いわゆる言葉と言葉の行間にある白い空間での建築物であり、言葉自体は表現(あるいは情象)のための単なる道具的存在であった筈である。それを根本から否定するような詩的言語とはいかなるものであろうか」と。

     更にまた『牛頭の海』が内包している革新性と危険性を捉えている。

     すなわち「『言葉の形而上学』的領域に接近してきている」「言葉自体が構築する詩的世界観は詩的言語の抒情性の解体から出発している点で、非常に冒険的所業である」「いわゆる散文詩的な臭いのないこの牛頭篇がイメージとイメージの連繋を中断し、言葉の機能性を無力化しようとしている。この試みが読者にある種の緊張感をもたらしえるが、同時に致命的な危険性をも内蔵していることは指摘しておくべきだろう」と。

     大岡信が『割れない卵』で指摘した「言葉の形而上学」とは、詩作の上での言葉の芸術化、または文学化のことであるという。

     詩作の連続作業という創造的行為の中から、その詩人の詩論が形成されていくのが通常だとすれば、詩作に至らしめる原因や根拠が詩人の側に不透明であったり、曖昧であった場合、満足な作品は成り立たないだろうし、よって詩論も明確な形で生まれるはずもない。

     詩作への根拠を明瞭化するために、詩人はあらゆる内的宇宙が内包する「混沌」や「曖昧なるもの」と、日常的に対決しなければならない精神的息苦しさを体験することになるだろう。

     太田充広にとって、書かれた作品の言葉と言葉が醸し出す時間と空間の、いわば四次元的世界観は、彼の内面の充実感の反映であり、精神的闘争によって築かれたダイヤの如き心象風景の投影であろうと思われる。

     ダイヤモンドは地中深くにあって、高圧と高温を受けて結晶化された鉱物の原石である。これを研磨に研磨して、あの王者のごとき輝きを創り出すのである。

     太田充広は、みずから「最初に書き始めた混沌とした状況を明確にすることの恐れ」を抱き、作品とその創造的過程にあって向き合わねばならない緊張感を表明している。

     また、現実の生き方の証としての《生活の矛盾点》から目を反らさず、それらを直視し、なおかつそれらと対決しなければならない精神的息苦しさを感じているのではあるが、結論として詩的創造作業こそが自己の不透明な生命としての《我》を抱え込んでいる詩人がなぜ詩を書くかという原点を照射し、浮かび上がらせるだろうと考察している。すなわち、詩を創り続けることによってしか、我が詩の原点は照らし出されないだろうということである。

     なぜ、詩を書くのか。

     詩人だから。

     なぜ、詩人になったのか。

     詩が好きだから。

     なぜ、好きになったのか。

     詩の言葉によって新しい世界を創造できるから。

     なぜ、新しい世界があなたには必要なのか。

     既存の世界にどっぷり浸かっていれば、怠惰が生まれ、歓喜は薄れ、快い刺激もなくなるだろう。我と我が身とを心の奥底から揺さぶるような感動と歓喜が人生には必要だろう。詩人は言葉によって、みずからの命をゆさぶるのである。目覚めよと。生命の大地を揺り動かすのであるから、そこにはバランスを取るための緊張が生まれ、精神的な苦闘もおのずから生まれるだろう。

     詩人は詩によって何を語ろうとするのか。

     それは、混沌たる生命の諸相を明確にし、人間とこれを取り巻く社会・宇宙を貫く法則性に立脚して、あるがままの我と我が身について語るものである。虚飾はいらない。文学であり、芸術であるならば、創造力をもってする遊びであるから、詩人自身は詩作行為を楽しまねばならない。読者もまたしかりである。作品の違いというものは、詩人自身の知・情・意の、人格の完成度の度合いによるから、読者は自分の好みにあった作品を選ぶことになるだろう。それは自由でよいだろう。

     詩人が自己自身を語るとはどういうことか。

     我と我が身について語るとは、言葉は狭いようだが、実は違うのである。我と我が身には全宇宙が収まっているということである。壮大にして無限なのである。荘厳にして尊厳なのである。このことを人々は見落としがちである。文学とはよいものである。詩とは美しいものであり、面白いものである。言葉というものが自由自在に宇宙を、私とあなたの宇宙を駆けめぐるのである。詩の世界に生まれた言葉たちが私たちを手招きし、呼んでいるのである。作品自体が呼吸しており、生き生きと脈動しているのである。だから、富樫庸は『牛頭の海』を読んだ感想を次のように記している。

     すなわち「この連作を読み続けていく時に私はある不思議さにこの作品の魅力を感じた。それは作品自体が生きているということ、一個の生命を持ち、確かな鼓動と呼吸を繰り返していることの不思議さは他に例を見ないだけに一層奇妙なものに見えた」と、その驚きを素直に表現してくれている。

     また、村田修は、次のように記している。

    「太田充広は、頭の中で詩を、すらすらと書きあげてしまう。その構築のすばらしさは、他に比を見ない。けれども、目的が何であるか『やや漠然としてしまうねらい』が、惜しい気がする。しかし、さらに良く言えば、無目的の目的は完全にはたしているわけで『詩がこじんまりと目的をさらけだすまとまりのいやらしさを否定して、詩を書く男』と言えば、言える詩人である」と。

     また、「存在するものの美しい終末を、彼は無意識のうちに書き綴っているのではないか」「登場する思想や風景が在ったかとおもうと霧のような彼方に去り、そして、次の作品で再来する。なくなっても在り、在ってもなくなってしまう」と。

     この遠近法とモンタージュ手法が、作品の言葉の意味をややばらばらにさせ、目的性を弱くしているとも田村は指摘する。「わかるようでさて、わからないということも(作品の難解さということも)、実存の証かもしれない」「彼の作品は、実存の彼方から湧きあがってくるモチーフを、熱っぽく肌でうけとめて表白していく」と、書き残してくれている。彼の独白が決して意味のないパントマイムにならないように、と警告を発しながら。

     

     ここまで、富樫庸と田村修の言葉を紹介してきたがいずれも、《地獄篇》には深く言及していないのである。なぜか。難解だからであろう。

     実生活という現実と、詩的創造作業という詩的時空の中の現実、この二種類の現実の対立と緊張から創造への根源的な衝動が生まれてくる。これはある作家の言葉を、わたしが詩人の立場から意訳したものであるが、日常の現実と作品世界の詩的現実とは明らかに相違があって当然だと思う。精神的比重が占める割合が実生活と詩的創造作業にあっては、どちらが大きいのか。

     富樫庸は、それは測り難いといいながら、詩人には二種類の現実の対立と緊張、すなわち「対決」があることを認識している。

     富樫庸は太田充広の作品「カリスの背中」を次のように読んだ。

     過去形になった現実との「対決」ゆえの産物であること、言い替えれば、過去を見つめることのできるちからの蓄積が作品となっていのちを与えたようなものである、と。「精神的比重の大きさ、深さを知る指標」ともいうべき作品だと。

     

     詩人には執念ともいうべきエネルギーが必要不可欠である。書かねばならないという執念が。書かなくても良いのだったら、詩人をいさぎよくやめるべきだ、天才アルチュール・ランボーのように。全人格的に詩心が脈動していなければならない。潜在的に深く眠っているときがあるかも知れないが、ひとたび、目覚めたならば、『牛頭の海』の地獄篇のように、壮大にエネルギッシュに書かねばならない。

     詩人の眼前には混沌とした宇宙、すなわち、「真空」の世界のみがただ、茫洋として広がっているだけかもしれない。物質はエネルギーの塊である。真空は無なのではない。エネルギーがただ拡散状態で潜伏しているだけである。時と条件が揃えば、星を創り出すのである。

     外なる宇宙は我が身の内なる宇宙と別のものではない。

    《地獄篇》は、太田充広の生命の一断面かも知れないが、すべてではない。彼には、まだまだ、他に書くべき作品を胸中の肉団に秘匿しているのだと、わたしは確信している。

     彼には、詩集として『牛頭の海』『一月の海岸』『雲の来歴』『わがデウカリオン』がある。

     奇しくも、富樫庸が二十年前に書き残している。

    「牛頭篇が未来に向かって書かれている、いくだろうという予測の上では漠然とした詩的世界が脳裏に残像として存在するのみである」と。

    《未来に向かって書かれている》牛頭の海。

     二十年後の今日、わたしが《地獄篇》の難解な詩的真実を解明しようとしている。《地獄篇》解明には、確かな哲学が必要だ。

     生と死、肉体と精神、人間と環境、文明と歴史、宇宙と生命、科学と宗教。

     それらすべてがわたしには、円環をなしており、円融円満しているようにおもわれてならない。

     

    《地獄篇》 Ⅰの章 最初の五行

     

    冥府の地に湧き生まれた赤児に告げよ 火の鳥 すさぶ風よ

    冥府の地に湧き 野に咲く色彩やかに裂かれた花裡に刻みつけて 牛頭はいるか

    地球を割り地獄はつけられた原子の焔 めらめら燃えるマグマの上

    老いた男の額の襞 八万の蓮台 分茶離迦 焦熱にこがれて 海の渕はるか突き出た

    高台 海辺にたたずむ一人の男 わたしの三半器管ふるわせ ふれあう目の先にある

     

    「冥府」とは、冥土・冥界・閻魔の庁・あの世のことで、死者が行く暗黒の世界であるとされている。

     文字どおり最初の一行二行を訳すと、冥土の暗黒の世界に湧き出すように生まれた赤児に、告げて言いなさい、火の鳥のように飛び回り、あれすさぶ風よ。

     色彩もあざやかな野に咲き乱れる花々の、何かに裂かれて散り敷く花のなかに、同じく冥土の地に湧き出た牛頭はたしかにいるかと。

     ここではまだ「冥府」が即地獄だとは言い切れない。今世から来世への途中の冥府は、かならずしも地獄とは決まっていないからである。地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の十界は、今世の人間にも、死後の生命にも同じようにそなわっている。今世の罪業あるいは福運の差に従って、死後に入っていく境涯は違うのである。成仏して仏界の境涯に入って行くのが理想である。これ以上の幸福はないだろう。

     さて、詩篇の「冥府」は、詩人の眼に映じた冥い今世の森羅万象のことではないのか。仮に死の世界だとしても、そこに湧き生まれるとは、納得がいかない。死が即生、滅が即生、あるいは生死がそのまま不二だとしても、冥府に生まれでた赤児の存在とは、いかなる存在なのか。死して即座に生まれ帰ってきた赤児ということだろうか。

     冥府とは、現在活動している現実のこの世の大地ではないのか。冥府の地とは、暗い宿業を背負って生きている母親の胎内のことであるように思われる。それゆえ、「地に湧き」とは、母の胎内から生まれ出ることを意味しているのだ。抽象的に言うと、生命の大地から湧出した幼子、地涌の子供のことである。生命という大地から湧き出るように現れでたこどもの誕生である。それは、詩人自身の内部に誕生したばかりの詩魂のおさなごではないのか。詩人は思う、わが詩篇には牛頭はいるのか、わが生命に巣くっている牛頭は詩篇のなかにもいるのかと。

    「赤児に告げよ 火の鳥 すさぶ風よ」詩的創造とは、遊びである。てすさびである。それはまた詩人自身の進歩・前進の姿勢である。火の鳥とは、蘇生の劇を演ずる詩人の魂そのものである。火の鳥のはばたきが巻き起こす風は、宿業の塵埃を吹き払い、汚れた生命を浄化していくのである。弱い風ではない。嵐のごとく吹き荒れる強靱な魂の変革の風である。そこに進歩があり、希望の前進が生まれる。地涌の赤児は、未来の青年を予測させてくれる。わが地獄篇よ、やがてはたくましい青年のような輝かしい未来をもたらしてくれたまえ、と詩人は思ったか。「告げよ」とは、詩人の予告であり、予言である。あるいは、希望の言葉である。

     

    「地球を割り地獄はつけられた原子の焔 めらめら燃えるマグマの上」

     広島や長崎への原爆投下を思わせる。それは、地獄絵図であろう。

     

    「老いた男の額の襞 八万の蓮台 分茶離迦 焦熱にこがれて 海の渕はるか突き出た

    高台 海辺にたたずむ一人の男 わたしの三半器管ふるわせ ふれあう目の先にある」

     

     この箇所は、難解である。高台は、岬か半島だろうか、ここに高台があらわれるのは、この高台からはるかを見渡すための舞台か。海辺にたたずむわたしの目の先にある高台。そこにいるのは、「老いた男」である。彼はあとであらわれる農夫であろう。農夫、彼は謎である。難解な人物である。彼の実体を解明しない限り、この《地獄篇》は解明されないだろう。農夫は田畑を耕し、種を蒔き、作物を育てるために働く男である。それはそのまま、人々の心の田畑に、幸福の種を蒔き、その人を成長させ、人格的にも成熟させるように育て励ます種類の人間であろうか。

     さて、「老いた男の額の襞」とは、老人の額のしわか。この詩句と次の「八万の蓮台」とどう結びつくのだろう。蓮台というからには、そこにはきっと仏様が座しているか、立っているか、いずれにしてもおられるのであろう。八万の仏がいるとは、どういうことであろうか。

     八とは、法華経一部八巻を指すか。この法華経より無量の義が生まれ、また、百千枝葉が一根に赴くように無量義が妙法の一法に収まる。また、八とは、八万法蔵を連想させる。釈尊が説いた膨大な八万法蔵の教えも、《我が身一人の日記文書なり》との、日蓮の金言がある。すなわち、八万法蔵といっても、一人を手本として万人の生命についてその諸相ならびに実相を解き明かしたものだということである。

     我が身の生命の内なる宇宙に八万の仏がいても不思議ではない。心臓・腎臓・肺臓・肝臓・脾臓等の働き(色法)と、精神作用(心法)が一体となって我が身体は成り立っている。精子も卵子も一個の生命体であろう。爪や髪の毛も、骨肉や血管も、神経細胞も、大脳や小脳や脳髄も、それぞれ仏性をそなえているのであろう。木石・塵も残さず仏性があるといわれているのだから。

     これら、尊厳なる生命を自他ともに守らねばならない。戦争や暴力、自殺・他殺などで絶対に生命を傷つけてはならないだろう。仏性をそなえているが故に尊厳である「生命」を、宝器ともいえる生命の器を傷つける者は、それがために、おのずから自身の生命に傷をつけていることを知らねばならない。それがゆえに、知らずに自己の生命に罪障をつくり、それが因となって果報としての苦悩の責め苦を自ら受けねばならなくなるのである。これが俗にいう因果応報である。

     

     次の「分茶離迦」(ふんだりか)についていえば、これは、芬陀梨伽(ふんだりきゃ)、梵語でプンダリーカといい、分茶利迦・分陀利華・芬陀利華とも音写し、白蓮華と訳す。仏典にいう蓮華には多種あるが、通常「蓮華」という場合は芬陀梨伽の白蓮華をさす。蓮華には泥中に生じてしかも泥に染まらないなどのすぐれた徳用があって、仏教ではさまざまな法門にたとえられている。

     芬陀利地獄というのがある。これは八寒地獄の一つで、この地獄に堕ちた者は極寒のために身体が裂けて白蓮華のような姿になるので芬陀利地獄という。ちなみに、同じ八寒地獄の一つに紅蓮地獄があるが、この地獄に堕ちた者は、あまりの寒さに皮膚が裂けて真っ赤になり、ちょうど紅色の蓮華が開いたようになるので紅蓮地獄というのである。

     最も恐ろしい地獄はなんだろうか。それは阿鼻(あび)地獄、別名無間(むけん)地獄である。欲界の最低、大焦熱地獄の下にあるとされ、五逆罪をつくる人、正法誹謗の者がこの地獄に堕ちると経に説かれている。間断なく苦しみもがく状態をいう。正法とは、法華経である。法華経を誹謗する者の堕ちる地獄が一番恐ろしい。

     

     めらめら燃える地獄のマグマの上に、老いた男が白蓮華の台座に座しているのか。地獄に仏か。阿鼻地獄の国土も、その地獄界の衆生も「最極(さいごく)の聖人」すなわち仏の心の中にそなわり、また仏の仏国土も凡夫の一念を越えるものではないという教えもある。仏界にも、地獄界から菩薩界までの九界がそなわり、九界のそれぞれにはまた仏界がそなわっているという。

     

     謎の一句。「焦熱にこがれて」これはどういうことだろうか。文字どおり訳せば、焦熱(地獄)に恋こがれて、という風にもなるが。おかしい。

     八万の蓮台の白蓮華をこころときめかせて求め焦がれている「わたし」がいる。海辺にたたずむ「わたし」の三半器管をふるわせるのは、海の波音か潮騒。そして、ふれあうほどの間近にあるのは、「海の渕」と「地獄のマグマ」、「老いた男」と「八万の蓮台」と、「白蓮華」、「火の鳥」と「すさぶ風」である。

     

     いま、詩人の目の前に展開されている光景は、落日の陽光を浴びて燃えて輝く海原であろう。太陽はまさに沈もうとしているのである。真っ赤に燃えて大きく輝いている夕陽に向かって飛んでいくものがいる。鴉である。赤い鴉である。《地獄篇》Ⅶの章に出てくる。

     詩人は、そのたそがれの海景に、「冥府」を見たのである。「冥府」は大地の下にあり、そして、海原の中にもあったのである。また、野に咲く色あざやかな花園のなかにも、透かし彫りされた牛頭という獄卒とともに地獄はあったのである。

     その森羅万象の諸法に、八万の蓮台という生命の諸相を垣間見て、その中に厳然と「白蓮華」という何物にも侵されず尊厳を保つ実相を一瞬の内に見たといえるのではないだろうか。

     

    「焦熱にこがれて」とは、焦熱とは久遠の太陽のことではないか。諸天のなかの王者は太陽である。星でもなく月でもない。諸経のなかの王者は法華経である。太陽の仏法は、永遠の生命の因果の法則である。悪因は千里の彼方から悪果を招き、善因は善果を万里の彼方から呼びあつめることができる。太陽の仏法はそのまま白蓮華の法なるがゆえに、大白法というのではないのか。その太陽に向かって飛び続ける鳥は、火の鳥である。

     最勝の宇宙の光源に向かって飛び続ける鳥は、その黄金の光を浴びて、金色となろう。「火の鳥」とは、詩人自身であり、彼の詩魂の表象でもある。

     

     今、詩人は夕陽の沈む海の光景に、外なる宇宙の生命の調べを聞き、三半器管を我知らずふるわせるのである。それはまた同時に、詩人自身の内なる宇宙の生命の海原に奏でられた交響曲でもあろうか。外なる宇宙と内なる宇宙とが相呼応して奏でる生命のリズムこそ、まさに詩篇を彩る青春の凱歌であり、建設の調べである。四季折々の光彩に、詩人は歴史を呼び込み、人間のドラマを呼び込み、宇宙と社会と人間を貫く一筋の法とそれらを結び付け、解け合わせる詩心という坩堝を内面に宿しているものなのである。

     ゆえに、近い関係にある日常性を遠ざけ、遠い関係にあるものを結び合わせる離れ技をやってのけるのである。異質な関係にあるものを、詩人は見えない糸で引き寄せて結び付ける。詩人にとっての真実は、現実のそれとは違う面が出てこよう。それだから、詩的真実というのである。

    死と生、善と悪、物と心、肉体と精神、環境と人間主体、美と醜、あらゆる面の異なったものどうしの関係が、詩人の生命の内側において円融円満しているのである。

    #366

    飛鳥聖羅
    参加者

    太田充広詩集『牛頭の海』地獄篇を読む
    飛鳥聖羅
                                
     待望久しかった太田充広詩集が平成九年九月に発刊された。私は、こころから喜んでいる一人である。詩歴三十年の詩人太田充広の全詩業を集大成した全詩集である。「牛頭の海」「雲の来歴」「一月の海岸」「わがデウカリオン」の全四冊に加えて「詩集以降」の新編も収録している。三八四ページにわたる大著である。《「火の鳥」の詩人――太田充広に寄せて》と題して、詩人平林敏彦氏が長文の解説文を載せておられる。名文であると、深く感銘した次第である。

     この詩集が日本のみならず世界の文化人の心を揺さぶる日の来ることを、念願してやまない。

     私は、以前、火の鳥に太田充広の「牛頭の海」の地獄篇の研究詩論を載せたことがあるが、今回は、地獄篇第一章のみを私なりの意訳として発表させていただく。

     地獄篇の本文は、二一四ページから二一八ページに載っている。難解な本文なので、こちらの力不足で意に満たない読み方になっているかもしれないと、危惧を抱いているのだが、ただ勇気を持って挑戦してみた。

     

    「地獄篇Ⅰ」を飛鳥聖羅はこう読んだ

    冥府の暗黒の世界に涌き出すように生まれた赤子に、
    告げて言いなさい、
    火の鳥のように飛び回り、あれすさぶ風よ。
    色彩もあざやかな野に咲き乱れる花々の、
    何かに裂かれて散り敷く花のなかに、
    同じく冥府の地に涌き出た牛頭はたしかにいるかと。
    地球を割って飛び出した火山の噴火のように、
    海は夕日に染められて、
    点火された原子の焔におおわれた地獄をおもわせ、
    海面はめらめら燃えるマグマに
    占領されているかのように見えるではないか。
    額に深い皺を刻んだ老いた男が、
    海の淵のはるかに突き出た岬の高台にあって、
    八万の蓮台のうえに座している。
    ふれあうほど目の先にある高台を望み、
    百蓮華や焦熱の久遠の太陽に恋こがれて、
    海辺にたたずむ一人の男のわたしは、
    三半規管を震わせ、
    生命の諸相にただ戦慄と驚異を覚えるばかりだ。

     

    そして陽は沈み、
    しずむ太陽の残照の燐光をあびてひらめく樹の蔭に、
    錆びた鍬の柄と稲が化石したように影を落としている。
    時の光は過去の歴史を突き抜け、いまここに立ち現れる。
    あぜ道の上を硝子職人の吹く息のように風が吹き渡り、
    きりこ細工を切り刻む人のように悩める詩人の肉体に
    夕日の鮮血にまみれた古い石より始まる
    昔を語る台詞が乱反射しながらさすらい揺れる。

     

    苦悩の闇の色に解け合うように黒々と、
    わたしは寂寥の根に打ちのめされたまま、
    混沌とした生命の森の蒼白い路を通り、歩き続ける。
    わたしは永劫の旅人のように歴史という名の地底へ、
    一条の道をくだる。
    そして再び、歴史の水面に多孔石のように
    軽やかに浮かびあがる。
    ああ、そこで出会った一人の老いぼれた男の相貌を見るがいい、
    広々として果てしなく底も知れないような
    蓮沼の水のように澄んだ眼をしているではないか。

     

    おまえの額は、老いた農夫よ、
    えぐり取られた潮野の匂いがする。
    チョモランマの雪解け後の岩肌の蒼白さと
    その峡谷のような皺にいろどられている。
    おまえの眉は、天に突き立つ断崖のようだ。
    森の蔭に燃える松葉のように、
    ちるるりと焼けた具合の色あいをみせている。
    その痩せた頭蓋の眉の下に落ちくぼんだ眼窩がある。
    おまえの眸は、春がすみの中の緑よりも幽玄に沈む。
    腐乱した死屍の臭いよりも青銅色に深く沈んでいる。
    おまえの鼻は、異教徒の手によってそぎ落とされた
    摩崖仏の顔面のように物寂しい風情だ。
    紅蓮地獄に吹き荒れる寒波の嵐を思わせる鼻息は、
    寒さに凍えて狂奔する悍馬のいななきのようだ。
    おまえの唇は、匂いたつように濡れた鹿皮色だが、
    しわがれおちた老婆か、
    泥にまみれた綸子のように
    血の気のないもののようにも見える。
    おまえの顎は、張りつめた鏃の緊迫感をただよわせ、
    意志の暖流と不穏の寒流が交接する攻めぎあいを演じている
    汚れた海の潮を彷彿とさせる。

     

    紀元前七世紀の過去から、
    現在のわたしの頭脳に呼び出した農夫よ、
    おまえの未来も老残の姿は変わらない。
    おまえは蜂鳥よりもひくく唸り、
    赤々と牙をむき出していっぴきの狼が吼えるような声をあげる。
    その声は、そそけ立っている一人の王の墳墓や樹木や大地を震わせて、
    いまも宙にとどまっている。

     

    おまえの胸は、老いた農夫よ、
    すきま風の吹き抜ける風洞や破れた格子窓のようではないか。
    そのような胸を牛頭は住処としているのだ。
    おまえの腹は、がるるりるりと唸る狼のように飢え、
    また腹を減らし発情して色を漁る飼い猫のように飢えている。
    おまえの腕は、鍬の柄にもたれかかり、
    すでに折れた矢の羽根が色褪せて役に立たなくなったもののように、
    耕すことを忘れたその腕よ。
    おまえの指は、泥の海に落ちて汚れた蟻のように黒く節くれており、
    さながらしおれた旗のように動かない。
    おまえの腰は、あたかも崩れ落ちた家の主のように悩みのために傾き、
    苦悩のうちに思惟する頭脳を支える土台となる。
    おまえの足は、堅固な大地に立ち、
    その足に踏みつけられるような邪鬼はいるだろうか。

     

    碧空はいま錆びて緑青をふいた銅鏡のように見える。
    百千もの雲の襞におおわれている。
    老いたおまえの耳に天から地に降るような
    いのちの闇の中の叫び声は、聞こえるだろうか。
    ガラス玉を目にかけたような寝ぼけ眼のおまえは、
    風に舌を赤裸に見せて、集積をなして迫ってきた泥が層をつくり、
    静かに時間をかけて苔むしたように苔むした伝承を物語る。

     

    男よ男、すでに陽は沈み、大地は割れた。
    割れた大地の底知れぬ下方より来た男よ。
    男よ男、入り日に炙られ燃えるように波立ち騒ぐ
    海の溶鉱炉より忽然と生まれた、
    赤銅を熱く溶かしたような色合いの男よ。
    銅を溶かしたような夕日の光彩は、
    地の果てまでも色鮮やかに澄み渡らせる。
    水に影を浮かべたナルシスのように澄み切った野性を、
    入り日の海は胎んでいる。
    六道輪廻する六つの顔と、
    意識・無意識層の思量識・蔵識の三つの心と、
    仏界という尊極の一つのいのちを、
    宇宙生命の溶鉱炉に溶かしこみ、
    心の中の星々を翔けめぐり、血潮をたぎらせ、
    母なる大地に伏し、苦の淵に沈む男よ。

     

    目を皿のように見開き、ひろがる視界に眼をこらし耳をひろげて、
    聞こえくる昔語りの幻聴を聴け。
    りゅうりょうと鳴り渡る音楽のように泰然と横たわり、
    大地に額づき土を噛むがいい。
    かみしめて東を眺めて見よ。
    夜空は雲におおわれ、雲は山にかかり、
    山は樹に滋養をおくり、樹は人間に宿をもたらし、
    人間は土によって豊かに養われ、
    土は人間の血と汗によって豊かに耕され、
    人間の血潮はいま色をなして沸いているか。
    胸もあらわに赤銅色のからだをねじり、
    ねじりあげるように垂直に腕を出すがいい。
    鉛のように重い肝をひしぎ、血を流している男よ。

     

    こうして、老いた農夫の苦悩に裂かれた皮膚から
    昔がたりの出来事が語られた。
    彼の口は枯れた樹皮のような色合いである。
    その身振りや叫び、振る舞いや血の色。
    汗の臭いは剥げ落ちる。
    落ちる露の一粒ひとつぶに映る顔。
    年ふりた樹の中を流れた時間が年輪を刻むように、
    流れて留まることのない時間の鑿によって刻まれた
    相貌の皺がどこかもの悲しく映る。
    動き続ける農夫の鍬の柄に夜光は乱反射しながら、
    あたりに散らばる。

     

    鈍色の月が小高い森の背にかかり、
    闇の中にもまだ夜明けには遠い未明の
    かすかな光がこぼれおちる。
    にぶい光が沈んでいるような農夫の眼に、
    星座は散らばり集まり、祝祭の帳がおりてくる。
    天空から降ってくる宇宙の慈愛だろうか。
    驀進する貨物列車のヘッドライトが遠ざかり、
    おなじく遠ざかる牛の鳴き声。
    ウモウウ、ウモルルウ、
    〈夜はかがやく朝が死ぬことです〉
    ウモウウ、ウモルルルウ、
    〈さようなら あしたはまた会うのですから〉
    高い丘の松の針にちくちく刺されて、私の腕はなごみ、
    遠ざかるものたちに手を振る。そして闇夜は訪れる。

     

    天空はいちめん黒いテントに覆われたように見える。
    その中に眠っていた生命がまたたきはじめる。
    流れ星がひとつ、
    ちりりちるりりと毛の燃える跡をひいて、
    星がひとつ消えていく。
    農夫は手を止めて、畑のあぜに腰をおろし、
    足を胸に抱えおさめるようにして石のように動かない。
    彼は話しはじめる。
    石の表面には夜露に濡れた苔がある。
    濡れた草木に囲まれた家々の窓の灯が、
    ぽつりぽつりと消えていく。

                      (Ⅰ終わり)

     第二連以降は、詩人が歴史の地底へ一条の道を頼りに降りていって、そこで出会った一人の老農夫について、連綿と語りついでいくのである。
     農夫の人間像を、身体の細かいところまで具体的にみつめ捉えており、その表現形式は日常性を超えているので、読者は驚くのである。
     農夫は、「二七○○年の過去から 現在に飛来した」人間である。そして、どれだけ老残の姿をしているか、詩人は口をきわめて語ってみせるのである。常にここには長遠の時間が影を落としているのであり、これを縦軸として、横軸に自然界の空間の広がりを掛け合わせていて詩篇を読む者の視界を別世界に連れ出していく働きをしているのではないだろうか。
     過去から現在へと、時間を旅しているような錯覚に襲われるかと思えば、次のように空間次元を異にする出来事が並列で記されているのである。
     「地割れ われた底知れぬ地の下より来た男」
     「不穏の海 うみ燃えたつ炉より 生まれた赤熱溶銅の男」
     「六の顔と 三のこころと 一のいのちを 溶鉱炉にとかし/星々を翔けめぐり たぎりたち 地に伏し 淵に沈む男」と。
     農夫の生まれ出た根源は、「生命」である。
     母なる大地、母なる海。太陽も月も星も、山も樹も草木も土も石も川も、すべてそれらの働きを人間は持っているということであろう。
     地・水・火・風・空の五大によって形成されている人間について、詩人はいかに語ろうかと苦慮しているのではないだろうか。
     割れた大地の底から来るとか、燃え立つ海の炉の中から生まれたとか、人類がいかなる状況のもとにある母親から生まれてきたかを考えるなら、考えられないことではないと思う。
     戦乱のちまたに呻吟する母親であったか、飢餓に苦悩する環境にあった母親であったか、貧乏と病気に喘いでいた母親であったか、健全で健康な家族に恵まれた環境のもとにあった母親であったか、常に暴力や不安や寂寥に悩まされていた母親であったか、時代や社会の影響を受けて、宿命にはかなく流されていきていた母親であったか。
     「老いた農夫の裂かれた皮膚から 昔がたりのできごとは語られ」るのである。
     「農夫は手を止め/畑のあぜに腰を沈め 足を胸におさめて石になる 彼は話しはじめる」のである。訪れる闇夜の中で、「星座は散らばりあつまり 祝祭の帳が降る/降り落ちるいつくしみ」をあびて、彼は語り出す。

    #370

    飛鳥聖羅
    参加者

    佐古祐二詩集『ラス・パルマス』を読む
    ——水と風と光と
    飛鳥聖羅

    詩集『ラス・パルマス』を「水と風と光」という観点から読んでみたい。この詩集には多くの水が流れていて、水の響きが心地よい。水の響きを通底音として、そのはざまをときどき爽やかな風がそよぎ、光がよぎる。光は太陽の光であったり、星の光である。

    まず、水の音に耳を傾けてみたい。詩集の中から、水の響きを拾い集めておきたい。

    詩篇「幼年」——《ぼくはみた/行水するおんなの裸を》。

    詩編「橋をわたって」——《釣竿をかついだ少年の/麦藁帽子が/いま/橋をわたってゆく》。橋の下には当然川の水が流れているはずだ。

    この詩の中で個性的な詩句が響く、《少年は/いつの世も/夏という橋をわたって/大人になってゆく》。

    詩篇「色彩の祝祭——ラウル・デュフィへのオマージュ」——《南の海に輝く太陽のスコール/寄せては返すきらめきのなか/盛り上がっては崩落する波頭のしぶき》。この詩の中で、煌めく南の青い海に対応するように、目の前を駈け抜けた美しい娘の赤い服が(いのちのさんざめき)を感じさせる鮮やかな赤色となって《キリリ発光している》のである。

    詩篇「波」——《背後に迫る波の獣じみた息遣いを料(はか)り、波の上に素早く立ち上がる》、《膝を深く曲げ、せり上がる波の壁を、水しぶきを蹴立てて駆け上がり、足下のえぐれた蒼い谷底へと、斜面を猛烈な速度で滑り降りる。落下する感覚の鋭い興奮のなか、波底でなめらかに切り返す》。サーフィンの光景を描いたものだが、《浮遊感と静寂》を破るように襲いかかる圧倒的な海の水量と、《散乱する真夏の圧倒的な光》がそこに在る。《傾(かし)ぐ水平線の上で、空と雲がぐらりとゆらぐ。かなしくなるほどに目映い日差しが降りそそぐ》。この詩の中で、水と光が戯れている。《ボードに腹ばいになって沖へ》《沖へ出ると、そこは不思議なくらいに静かな海だ》。静寂に対応するように、《轟きとともに、そそり立つ波が頽(くずお)れる》。静と動の世界である。

    詩篇「天神橋から天満橋へと続く錦繍の道で」——《空も/やがて/ワイン・レッドに染まり/ボルドーの赤のときが/川面を撫でてゆく/スールポンミラボー クーラセーヌは/そんな至福のときに/聞こえる》。これはとても美しい詩句である。アポリネールの詩「ミラボー橋」を下敷きにしていて、《吟唱するおんなの甘やかな声》が聞こえるのだが、それを打ち消すかのように、谷川俊太郎の詩句がよぎる。《ひらがなばかりの一篇の詩は/ひとつの例外を飼っている/〈死〉という一文字だ》。ある意味で、この詩集『ラス・パルマス』を貫いている縦糸としての【生と死】がここに顔を出している。

    詩篇「跨線橋」——《檸檬をかじると/はじける霧のなかに垣間見る/青春の後ろ姿》。霧も水である。朦朧とした霧が弾けるように風に流されて視界が開けると、そこに青年時代の自分が頬杖をついているのが見える。《背中には膂力を孕む翼が見える》——青年の力強い夢の翼が偲ばれる。《力いっぱい抛(ほう)り上げる/かじりかけの檸檬を風に向かって》——青春時代にはいつも何かしらの風が吹いているものだ。人を失敗や挫折させる風が、また人を夢見心地にさせる甘い爽やかな風が吹いているものだ。逆境に吹く風も、ロマンチックな風も、青春をいろどる魂の風である。

    詩篇「津波」——《扉の向こうには/枯葉のとめどなく舞い落ちる/濃密な時間がたゆたっている》、その《扉をひらくと》《悔恨ともつかぬ津波が/どっと押し寄せる》が、《流されまいとする/ぼくの心》が踏ん張っている。無意味に流れていってしまった失われた時の多さに悔いが残るが、いつも、いつでも目の前の扉の向こうでは、豊かな美しい時間が流れているのだということを詩人は知っているのだ。〈時間がたゆたう〉という表現が素晴らしい。まるで金色に夕やけた黄昏の空の雲のたなびきを見るようだ。

    詩篇「流れる水」——《人間は/流れる水でなければならない》《澱んだ水は腐ってしまうのだから》。次に素晴らしく美しい詩句が続くのだ、《この星に流れる水だからこそ/思いどおりに/心が夕焼けるのだから》——この青い星(かけがえのない地球)に流れる水(人間)は、進取と進化の舵を取りながら、人間らしく振る舞い、大地が与えた豊かで美しいもの、塩や緑や草原を走るものや空翔けるものとともにこころ豊かに暮らしてゆけるはずだ。平和の魂の中にこそ思い通りに金色の夕焼けが色彩豊かに広がるのだ。澱む水とは、戦争であり、暴力であり、貪欲であり、愚痴であり、飢餓であり、疫病であったりするだろう。人間生命を腐敗させる元凶は、嫉妬であり、裏切りであり、憎悪であり、侮蔑であり、差別であり、無意味な血で血を洗う武力闘争であったりするだろう。人間の尊厳、生命の尊厳を傷つけるものは、すべて悪である。人間が流れる水であるためには、何が必要だろうか。流れを阻むものを拒むことである。断固として否と叫ぶべきである。人間の生命の尊厳を痛め付け、傷つけるものを断固として拒否する非暴力の雄々しき声を上げることである。悪は許さないという正義こそ真正の雄叫びである。水の流れを流れたらしめるには、常に人間一人ひとりの生命の浄化作業や異なった国々との文化の支流を呼び集めて、流れを太く広くし、流れの勢いを増していくことである。その先に広がる世界こそ絢爛たる夕焼けの空と海である。それであってこそ、この地球は素晴らしき世界となるのだ。

    詩篇「樹を植える」——《魚たち/いのちを産みに川遡る》、《アイヌの人たち/あなたたちは/川を躰でわかっていたのですね/上流の森が川を生かしていることも》。アイヌの人々を侮蔑し、土地を奪い、川を汚し、血肉化した智慧を皮相な文明のマントで覆ってしまった日本人の愚かさを詩人は嘆いている。上流の森が川を生かしていることを知っているが故に、漁業に携る人たちは川の上流に植樹するのである。森によって生かされた川は、豊かになり、魚たちを生かしていくのであり、魚たちは人間を生かしていくのである。森の恩恵、川の恩恵、魚の恩恵を人間は忘れてはならない。《「ペトウェカリ」》はアイヌ語で、「川の行き会う場所」という意味だそうだが、文明の十字路やシルクロードを思い描かせる。人間の行き交う場所であり、文化の揺籃の地であり、人種の坩堝を思わせる。「川の分かれる場所」を分断や隔絶ではなく、交流の場、融合の場と捉える智慧は優れたものである。

    詩篇「地球と寝る」——《畏れと憧れのあまり、星明りに照らされた幽邃(ゆうすい)の湖に指を沈める》、《瞬間、そそり立つ氷山が極北の地で、とろりと頽(くずお)れる》、《今にもポトンと落ちてジュッと音がするような夕陽に、輝く海》。

    詩篇「沈黙のしたたり」——《魂を象嵌した少女は/一滴のしずくとなって佇んでいる》。いまだなお硝煙のたちこめる朝、立ち尽くす少女の細いからだから《無言の抗議と慟哭》が迸ってくる。

    詩篇「チェロの海」——《恥じらいの丘のくぼみに/旬の果汁が沁みて来て》、《やわらかな白い光のなかで/俺たちは/波打つ秘密に/静かな海の響きを聴いた》。エロチシズムに波打つ肉体と鼓動に、母なる海の永遠の潮騒を聴いたか。

    詩篇「重力と浮力」——《きみと出逢った宝ヶ池》、地名であるか、それは知らないが、池は水である。《俺は/人工腎臓のチューブの中を循環する/自分の赤い液体を/みつめて/帰宅した》。赤い液体に心が揺さぶられる。

    詩篇「ありがとう」——《雨に濡れて走った学生街》、《頬にかかる涙のように/時がこぼれ落ち》、《いま/水面(みなも)に光るトレモロは/褪せることのない/いくつもの想い出のシーンのように/戯れている》。感謝の雨、感謝の涙、それぞれが池の水面のように広がり、想い出をトレモロのようにさざなみだたせ、光らせているのだ。

    詩篇「愛の季節」——《やさしく静かに降る雨》、《時間は/ゆるゆると/手のぬくもりのように流れていく》。雨は思春期には愛の新芽を扉のように開き、やがて青年の大地を潤し、豊かな水流となって時間と共に、成熟の大人の海へ流れ入る。

    詩篇「信号灯」——《霙(みぞれ)のじびじびとしたうそ寒さ》、《信号灯のにじんだ赤だけが/この世界をぼくのこころになじませる》——蛇行する鉄路、転轍機、灰色の風景、みぞれに滲んだ赤い信号灯。こころをなじませる赤、それは、《わが人生にとって/それはまるで/朝の食卓に置かれた/ひとつのもぎたてのトマトだ》。霙、雨と雪が混じっている。灰色の中で点滅する滲んだ赤を、もぎたてのトマトに喩えると、トマトの赤がより一層際立って見える。もぎたてと言われると、太陽の光をいっぱい吸い込んで熟した美味なトマトを連想させる。詩人の心の中には、灰色の世界と太陽の世界の二重構造があって、それが拒絶反応を示すことなく、寄り添うようにあるのが見て取れる。

    詩篇「桜幻夢」——《解き放たれたわたしの深部を流れる川の/意外にも清らかなせせらぎの音》、《その無垢の音に/ほかならぬわたし自身が/愕(おどろ)きとまどい/めくるめくかがやいている》。魂を解放した詩人自身の内部の奥底を流れてやまない川が在り、そそのせせらぎの無垢の音に耳を澄ませば、その混じりけのない無垢さに驚くと同時に、ふしぎと輝き始める自分がそこにいる。ただ美しく咲く桜であるが嵐のように散りゆく桜に、《滅びへの誘惑の/風の愛撫を受けて》、魂がかがやいているのである。自身の輝きの後に来るだろう滅びへの誘惑が桜を通して夢幻のように木霊しているのだ。ある意味で、美しいもののなかに咲く儚さの美学が詩人の深奥の川の流れを清らかにし、無垢にしているのかも知れない。

    詩篇「凍裂」——《琥珀のなかに身を溶かし/ルクランと 音たてる/氷のかけら》。〈ルクランと音たてる〉の詩句が効いている。氷、これも水である。

    詩篇「葉」——《夏も酣(たけなわ)となれば、(中略)強い日差しとたっぷりの水は、葉を太らせる反面、表面を堅く装わせてゆく》。

    詩篇「あの境目は」——《空と海との境目を/水平線とよぶならば》、《雲海に紅をさし》、《屈託の沼から這い出して》、夕陽のように、《そのとき/わたしのいのちも/放っていることだろう/ヴィヴァルディのように/陰影に富む四季の光を》。やがて来る衰退を受容できる心の広さを身につけ、《ただ生を信じ 生きて/ゆきさえすればよかったのだ》と悟る人に、人生は陰翳に富む四季の光彩を齎してくれるのだ。夜明け前の光が雲海にほんのり紅をさし、朱から紫、藍へととけていく宙(そら)を見るならば、ひとの幸福もあの雲海のようにふうわり輝いて見えるに違いない。

    詩篇「少年と夏」——《少年は/額に汗をにじませて/絵筆に水を含ませる》、《携帯用イーゼルには/画板に水張りした水彩専用紙》。《夏というものは/こういうものだと》いわれるような、降り注ぐ太陽の光と暑さに滴る汗をものともせず、少年は画布に筆を遊ばせる。高空を旋回する猛禽のいる世界は、《少年の魂に慈母(はは)のように/微笑みかけていた》。その世界は、《陸揚げされた漁船/人影のない漁(猟?)師町》である。海浜の町であろうか。これも水である。海の水が揺れている風景画である。

    詩篇「冬の海」——《荒荒しく吼える海》、《乳房のように盛りあがり/瀑布のように崩落する/波頭のしぶきの中》、《灰色の海と空のあわいを/丸裸のいのちのように/翔けていく》鳥がいる。もうすぐ新しい冬がやってくる。そのとき、《ぼくは知る》、この世の中の美醜を、勇気を、悲嘆を。《海よ(中略)宇宙のように力強く/空のように繊細な/この世界のふところを》、知れば知るほど問わずにはいられない。《ぼくの問いのすべてにぼく自身が答えるために》、問いの前にたじろぐ自分だが、それでも歩き続けるのだ。詩人の中に広がり波打つ冬の吼える海があるのだ。水しぶきがあがる怒涛の海が在るのだ。波乱万丈の航海があるのだ。舵取りを過たず、前へ進むしかない。潮騒は永劫に鳴り響くことを止めないだろう。水の響きが心地よい。生命の中を流れる水は清らかでなければならない。流れつづけなければならないのだ。澱めば腐るからだ。自身の生を信じて、前へと流れつづけなければならない。

    次に、第二の観点である「風」の面を、詩集から拾い集めておきたい。

    巻頭詩篇「詩で」——《やわらかな風が沈黙を運んでくる/ここにぼくは立っている》。詩では、《ぼくの言葉ときみの言葉とが/溶けて混ざり合って/静かで美しい沈黙の時間がやってくる》のだ。詩ではできるのだ、風景を変えることも、喜びやかなしみを歌うことも。雲雀が飛翔するように《空高く飛べ/俺のかなしみよ》。青いかなしみがやわらかな風に乗って空の高みへと消えてゆけば、静かな沈黙の時間が美しい豊かさをともなって平和の光を満天に灯すだろう。

    詩篇「幼年」——《軒の鬼灯(ほおずき)は風にゆれ》、夢幻のように時が駈けぬける下町の路地は、幻燈の絵のように幼年の眼に焼き付いて離れない。

    詩篇「橋をわたって」——《風の吹く/小高い丘の野にある/ちいさな木橋》、その橋の真ん中で、釣竿をかついだ少年は眼前の風景を頭脳の画布に描きとめる。広がる町並み、横たわる青い山脈、空高く湧きたつ入道雲、かがやく峰、流れる川の水、橋につづく道を、麦藁帽子の少年はしかと見る。少年というものは、いつだって、緑の風に吹かれて、夏という古い小さな木橋をわたって、少しずつ一個の青いオレンジのように成熟していくものなのだ。

    詩篇「色彩の祝祭」——《風がひゅんと吹いて/赤い服の娘が/目の前を軽やかに/駈け抜けていった》、《その娘は美しかった》。この風は海の風であろう。明るい色彩、鮮やかな赤色を発光させ、美しい娘はいのちをさざめかせて駈け去ったが、いまなお、詩人の網膜にさんざめき光る宝石か星のように貼り付いているのだ。

    詩篇「熱風」——《俺の心のなかのスペイン》、《アンダルシアの野に吹く風》、黒衣の女たちが歌い舞い踊るフラメンコ。《打ち鳴らされるパルマとサパテアード》、いのちの響きの手拍子(ラス・パルマス)、情熱と共に熱く燃えたぎる人間の血の響きだ。魂のこもった《弾かれたギタアの音色》、弦の響きの《アル・アイレもアポ・ヤンドも/何か大事な忘れ物をしてきたような/沈黙の空に沁みてゆく》。《ガルシア・ロルカの勇気とかなしみ》、きれいなおしっこは《ロルカの流血のように》、《夕焼けみたいに真っ赤なんだ!》。胸の中にゆくりなく噴き上がる《熱風》は塩辛い涙と混じり合っているのだ。

    詩篇「波」——《波の穂が、海向きの風にちぎれて飛んでいる。水煙が遠目にもはっきりと見える》。波の穂がちぎれて水煙が立つほどの強い風であろう。

    詩篇「ポプラ」——《ほんのわずかな風なのに、ポプラは、葉の一枚いちまいにその意思を込め、細かく顫(ふる)えてやまない》。この詩のなかでもっとも美しい詩句に出会った気がするのは、次の言葉である。《ポプラは、あの澄んだ空の高みに垂直の祈りを届けようとして成長をやめないのであるが、そのために、世界の新鮮な空気をいささかなりとも多く取り込もうと、からだじゅうの葉を一斉に揺らすのだ》。ポプラの葉を一斉に揺らすのは風である。《どんなに深く疵(きず)つけられても、土をまさぐる根を喪わない限り、ポプラは、天に向かって伸びていく》。人間に当てはめるなら、どんな侮蔑や暴力や中傷批判や嫉妬や裏切り、あるいは失敗、敗北の目にあって、深く疵つき、逆境の泥沼にたたき落とされたとしても、人間としての根源の善性と希望を喪失しない限り、紺碧の青空に向かって真直ぐに伸びていこうとすのが豊穰な人間性の持ち主である。強靱な精神と正視眼は、人間を天空の孤高の境地に至らしめる強弓である。

    詩篇「何かが道をやってくる」——《思考が凝り固まろうとするとき/風の吹く小径を散歩しよう》、緑をたたえた花木やサバンナのガゼルの群れが道をやってくるような時代、《二十一世紀という時代を/微分すれば/いのちのいとおしさと歓びが/丸ごと見えてくる》。生命をいとおしむ愛と歓びの時代が二十一世紀なのだ。二十世紀という戦争の世紀の古いくびきから、人間は解放されなければならない。新しい人類が「思考は現実化する」という風を求めて、歩行し始めている。99%の発汗と1%のインスピレーションの大切さを教えてくれたのは、発明王のエジソンだ。熱く夢を思い描きつづければ、自らの最勝のいのちを奥底から解放することができる。新しい自己との出会いは実現するだろう。自己の深海底に眠る金鉱を掘り当てることも可能である。いのちの尊厳と自他ともの幸福と平安の歓びが、海の満ち潮のように湧きあがってくるだろう。人間が人間であることの自由と平等と尊厳が、青空のスクリーンに爽やかに美しく描かれる時代こそ二十一世紀という時代である。古い固定観念の塵埃を吹き払う風こそ、吹いてしかるべきである。自らのいのちに巣食っている迷妄、迷信、虚偽、不信、貪欲、人を地獄に落とす愚かな怒り、愚痴、嫉妬、臆病を吹き飛ばす潔い風こそ、吹いて欲しいのだ。

    詩篇「地球と寝る」——《そよそよと風がさわりに来る。頼みもしないのに俺を気持ちよくさせる術を心得ている》。

    詩篇「時代の空」——《夜が明け/空の表情を変える大きな風》、時代の黒雲を動かし裂け目をつける風、金色の雲間から光のカーテンがおろされ、《太陽が一本の梯子を大地に下ろす》、どんなときでも希望は明けの明星のように凛として、自己の胸に輝いていなければならない。いつの世も、時代を動かす正義の熱と力の風は吹くものである。謀略と悪事は天日のもとに晒される羽目になり、人の目をごまかすことはできないものである。

    詩篇「チェロの海」——《小鳥のさえずりを合図に/長い髪をかきあげる/早春のつむじ風》。

    詩篇「午下り」——許されて病衣のまま散歩し、木陰のベンチに腰掛ける詩人、《時折 風がそよぐ》、詩人は空を仰ぎ見る、《風が立つ/葉漏れ陽がゆれる》、天空の深い鎮もりからこぼれ落ちてくる音楽がある。病院のテニスコートには誰もいなくて、まわりの灌木の葉が風に揺れている。午下りの静寂の中を、蟻たちの動きと風に揺れる葉漏れ陽がハーモニーをまぶしく奏でているのだ。

    詩篇「ひがさ」——佳作である。《にわしごとのきみの ほつれがみ/かぜにゆれて/いまも きみは かがやいている/あのひの/くるくるまわる ましろいひがさのように》。

    詩篇「かくれんぼ」——《風が通りすぎてゆく》、あらゆるものが萌えている大地があるばかりだ。風が魂となってあらゆるものを萌えさすのである。そんな豊かな世界にあって、詩人は《辛抱強く待っている》のだ、彼が真実の彼自身を見つけてくれるのを。

    詩篇「桜幻夢」——《花降る午後の気だるいまばゆさ》、《ふぶく桜の木の下に吊るされる》。花降るとは、風に桜が舞い散ることだ。ふぶく桜とは、桜吹雪は風によって齎されるのだ。詩人の内奥を流れる川のせせらぎの無垢の音に、《愕きとまどい》、《未生の記憶と滅びへの誘惑の/風の愛撫を受けて》、《めくるめくかがやいている》、《わたし自身》がそこにいる。滅びへの誘惑があるのは、風に散りゆく桜の夢幻のごとき美しさに魅惑されるからであろうか。

    詩篇「風が吹く世界」——《ほかの誰もが見放したとしても 男には/風が寄り添うであろう》、《風のわたる丘にずっと寝そべっていると》、心の楽譜に数々の詩句が踊り始める。《風が世界にいのちを与え 心をそよがせる》——なんと美しい詩句であろうか。生きるとは、人間自身の《存在自体の美しさなのだと》、気づかせてくれる。私たちはこの世に幸福になるために生まれてきたのだ。生きていること自体が幸福であり、美しいのだ。だから、他者を傷つけてはならないのだと、世界中の人が気づいてくれたら、この地球はどんなに住みやすく、平和な世界となることだろう。この世に生まれた人々の幸福を誰も壊す権利はないはずだ。人間の心の空に風が吹く。人間の心の海に風が吹く。人間の心の大地に風が吹く。人間の心から大地は生まれ、海が生まれ、空が生まれる。風が人間に魂を吹き込むのかもしれない。生きる勇気を、物事に挑む美しい姿勢を、構造や組織を革新していく熱意を、風が増大させるはたらきをするのかもしれない。この世における勇者、挑戦者、変革者、情熱家は皆、勝利者となり、幸福者である。世界にいのちを与える風が吹かなければ、すなわち《世界がそよぎをやめたなら》、そこに待っているものは、不幸という名の、澱んだ水であり、腐ってしまった水の世界である。

    詩篇「葉」——《風に吹かれて、芽は、やわらかな新緑に耀く》、《そればかりか、木立が風にそよいで見せる葉裏の機微は、時に異様に美しく見えさえして》。《葉は、風の手のひらによって、そっと地表に置かれ、いつしか土と同化する》。人間の言の葉も、詩人の言の葉も、《次なる芽吹きの肥やしとなるのだ》。人間は誰かの言の葉に触れて、生きる意欲が芽吹くときがある。勇気や確信や信念が芽吹き、希望が芽吹き、癒されるときがある。言の葉は善きにつけ悪しきにつけ何かしら力を持っているものだ。言霊(ことだま)とはよくいったものである。人間の魂を揺さぶる言葉というものがあるのである。相手の生命を触発する機縁ともなるのだ。

    詩篇「冬の海」——《荒荒しく吼える海》、《猛る海よ》、海が猛り、荒々しく吼えるのは、強い寒風のなせるわざである。風とともに《凛とした新しい冬が》やってくるのである。冬はいつも斬新である。冬はいつも厳しさの中に新鮮な驚きを連れてやってくる。やがて人々は力強く宇宙にいだかれ、繊細な空のふところに温められていくことになる。あのさんざめく冬の星座を見るがいい。心が波立ち騒がないはずがない。凛とした輝きの美しい宝石の宝冠や首飾り、腕輪や指輪やイヤリングを天空のそこかしこに仰ぎ見ることのできる歓びを知るだろう。冬空に美しい物語を思い描くことも可能であろう。冬、海の色にも染まらず、熱情に顫えて鳥が飛ぶ。美しい裸形のいのちが翔ていく。

     第三の観点として「光」の面を、詩集から拾い集めておきたい。

    詩篇「橋をわたって」——《かがやく力の峰よ》。

    詩篇「色彩の祝祭」——《太陽のスコール》、《寄せては返すきらめき》、《鮮やかな赤色だけがキリリ発光している》、《いのちのさんざめき》。

    詩篇「熱風」——《白く輝く太陽》。

    詩篇「波」——《散乱する真夏の圧倒的な光》、《かなしくなるほどに目映い日差しが降りそそぐ》。

    詩篇「ポプラ」——《あの澄んだ空の高みに》、青空は輝いている。

    詩篇「流れる水」——《このかけがえのない星(地球)》。

    詩篇「地球と寝る」——《星明りに照らされた幽邃の湖》、《空を赤々と染め抜き》、《夕陽に、輝く海》、《残照のなか、明日へと光って翔ぶ蝶を!》

    詩篇「やわらかな白い花」——《朝のひかりのなか》、《ふと見やった窓の外に/まぶしい光を見たような気がした》。

    詩篇「時代の空」——《太陽が一本の梯子を大地に下ろす》、《ガゼルが振り向く/黒い眼が光を秘める》。

    詩篇「葡萄の房(クラスター)」——《葡萄の房から散らばりおちたかれらを/うけとめる大地のよろこび/ゆたかな土は/ひかりのように生命を生む》。

    詩篇「沈黙のしたたり」——《硝煙のなお立ちこめる白い朝の光のなか》。

    詩篇「線路」——《真夏の/太陽に焼けて光るおまえは》、《人びとの美しい村へと/まっすぐ伸びて/陽炎にゆらぐ》。

    詩篇「乗客」——《けやきの並木の輝く若葉が/初夏の日差しを浴びて》いるのだが、通院のため病院の送迎バスに乗る乗客はいつも〈死〉と隣り合わせなのである。《死すら/乗客なのだ》と。まるでトランペットの音色が高々と空に響きわたるかのような詩句ではないか。かがやく欅の若葉の〈生〉と対象に〈死〉は配置されている。生と死が詩人の心の中で、湖のように風にさざめき波立っているのである。

    詩篇「チェロの海」——《やわらかな白い光のなかで》、《静かな海の響きを聴いた》、《真っ青に抜けた空がのぞき》、窓のカーテンが微風にゆれている。

    詩篇「重力と浮力」——《空の破片が/ジグソーパズルのように/降りそそぐ朝》、《いつしか陽はかたむき/太陽の破片が/俺のこころに崩れ落ちてきた》。《茜の空に向かって》、詩人は踏み出した、《妙に軽くなって》。重力に充ちた現実のなかで、愛する人との出逢いは軽やかにこの世を生きる浮力を与えてくれる。青春の光と影がここにある。生と死のせめぎあいがここにある。透析導入、透析療法という重力をはねのける愛の力がここにある。《俺は言葉にならない塊を/クアーッ/と吐き出した》。

    詩篇「午下り」——頭上に《音楽がこぼれ落ちて来る》ように、吹きよせる風に《葉漏れ陽がゆれる》。

    詩篇「ありがとう」——《水面に光るトレモロは》、《戯れている》。

    詩篇「Everything happens to me」——《星が流れるたび/思わず上げてしまう感声》、《鋭利な剃刀で切り裂くように/奇(くす)しき光が真っ直ぐに——/すべての奇蹟がぼくの上に起こる》。獅子座流星群を、夫婦して、窓を開けて見上げている。

    詩篇「ひがさ」——《あのひの/くるくるまわる ましろいひがさのように》、《いまも きみは かがやいている》。ひがさは夏に日差しを遮るために差して歩くものである。

    詩篇「十月の空」——《木漏れ日ゆれて/金木犀の香が運ばれてくる》。飛行機雲は《ほんとうは/ほどけて消えるのではなく/この美しい世界に/とけこんでいくのだと》、気づく。長い入院から解放された晴れた日に。

    詩篇「信号灯」——《信号灯のにじんだ赤》、それは《ひとつのもぎたてのトマト》のように、《この世界をぼくのこころになじませる》のである。

    詩篇「星の収穫祭」——《山小屋の星星は/たわわに実った果実のように/手をのばせばもぎ取れそうなほど近くて/覆された宝石の収穫祭だ》、《病を抱えたわが体躯は(中略)吸い込まれるように浮き上がる》のだ。

    詩篇「あの境目は」——機上の人の眼に映る《空と雲とのあの境目》では、《夜明け前の光》が、《はじらう娘のように/ほんのり/雲海に紅をさし》、宙(そら)へとけてゆく。《ひとの幸福》も、《あのようにふうわり/輝いてみえる》ものなのか。《夕べに傾いてゆく/太陽のように》、《陰影に富む四季の光を》、《わたしのいのちも/放っている》のだ。

    詩篇「少年と夏」——《太陽は輝き続け》、《ふりそそぐ陽光は/じりじりと容赦ない》。これが夏だというような夏の微熱のなか、魂に《美しい慈母(はは)のように/微笑みかけて》くれるものを持っている少年は、幸福である。やがて、美しい青年に育つだろう。

    佐古祐二詩集『ラス・パルマス』を流れる本流は、水の響きであろうか。水と風と光が織り成す一大スペクタクルの大画面を思い描くように、生と死、陰と陽、光と影、平和と戦争、美と醜、善と悪が旋律も豊かに鳴り響いているのである。地の星と天の曲のように、海原のうねりと響く潮騒、大地にかがやく森や樹木や川、天と海と地に吹きわたる風、天より降り注ぐ光の束、高鳴る楽器の音色と歌声と舞踏、いきとしいけるものがお互いに、生命の輪をなして繋がっているのである。宇宙に浮かぶ青い星、地球はどこまでも素晴らしい世界である。美しい世界は、誰の胸の中にも存在するのである。
    2007年5月22日

    #371

    mariko sumikura
    キーマスター

    詩を哲学することは、単に評するのではなく、どこまで切迫できるかだと思います。詩人と対峙できる気迫を持たねば詩に呑み込まれてしまうでしょう。飛鳥さんの詩論には、息詰まる展開があります。掲載感謝。

    #372

    飛鳥聖羅
    参加者

    邂逅と飛翔のポエジー
     我が詩集「大航海時代」の読者に贈る(1990年)
    飛鳥聖羅

    曇天の垂れ幕にもたれてうたた寝をしていると、何処からともなく声がして僕の内耳の鼓を撃ち叩くので目が覚めた。
    二十億光年のかなたから見知らぬ女人が羽衣をひるがえして薄く淡いオレンジ色の光の波に乗って、ごめんくださいませと鈴の音を転がしながら僕のたなごころの湖上に舞い降りた。
    海の惑星では生命の旅人はタバコをくゆらしながら黒髪をかきあげ、驚いて舞い上がった無数の鳥たちを眺めている。
    僕の背後でうすむらさきのアザミの花にとまった蝶が音もなく花粉の文字にくちづけし、二度三度黄色い羽をゆったりと動かしてあたりの空気の粒をおしのける。
    緑のしたたる草原はなぜかおぼろに霞み、いま空から舞い降りたばかりの女人の声と、花と蝶ばかりが色あざやかに僕の漆喰のこころの壁にレリーフされている。
    かすかに古都の山並みと寺院の甍と河の流れが夢まぼろしのうちにあらわれ、いにしえの木立の花の薫りが湿った蒼い風に煽られて、僕の胸元までそっと漂ってくる。
    窓をあけて宇宙を覗き見れば、虚空のとばりを割ってトルコブルーの帆船が忍び寄ってくる。
    あまりにも妖しくやわらかな光の束がこぼれでて、地上はまさに極地の磁気嵐にみまわれ、夢幻のオーロラがわが言語の狩人の行く手をはばむ。
    いましばらく足を留めて言葉の花束を編もう。

    詩歌の道に年齢はないと、僕は思う。
    自己自身をゆたかな沃土となして、はじめて草木は茂り、万朶と花開く。
    自身のいのちのうなばらに勇気をだしてはいっていくこと、自身の心を深く知ればそこにあまりにも豊饒な新世界が待ち受けていることだろう。

    詩心はまた絵心にも通じていよう。
    自己も他者も同じ人間であり、大宇宙の一つの連関のなかにある。他人の痛みや苦しみ・悲しみもまた我が身の苦しみと感受する度量の大きな人に、いのちの器を大きくすることがとても大切なことに思われる。
    僕のまなざしは常に「心」に向けられている。物でさえも単に物とは見ない。僕は草木と語り、星たちと楽しく対話し、太陽とあいさつをかわす。万物を友としてそこに不思議な生命の力と、あふれくる泉をみいだし、いのちをふきこみ、自在に変転する現実の事象をさしつらぬく大宇宙の不変なる法則をじっとみつめる。ひとりの人間のいのちに秘められた無限の可能性の星座の輝きを見る。黎明の海辺に立って、万人を互いに結び合う見えざる生命の紐帯を覚知する、この豊饒なる精神の泉を詩心と呼ぶ。

    詩心は、人間の想像力と価値創造の源泉である。それはこの地上に夢と希望と勇気とをはぐくみ、調和と融合をもたらし、だれも侵すことのできない力をもって内面世界を荒れ地から沃野へと転じゆく。

    人類はいま二十一世紀を前にして大きな岐路に立たされている。物質主義の津波のなかにあってその波に没し去ってしまうのか、それとも、人間の復権の時代をつくるのかという選択にせまられているのである。
    この人間の復権の源泉こそ、詩心にある。そしてそれを成し遂げていくことが詩人に課せられた仕事にほかならない。
    神秘とも思われる生命の扉をひらき、宇宙の見えざる法則への目を開くことは、閉塞した心の世界を撃ち破り無限の広がりを生み出すだろう。
    大宇宙・大自然と溶け合い律動する人間の生命の真実をするどく捉え、万物への慈愛と感動にみちたすぐれた詩は、人々の詩心をよびさまし、馥郁たる人間性を開花させるだろう。詩心の復権は、来たるべき次代を人間の平和の世紀へと転じゆくことを意味するのではないだろうか。
    文学は、宇宙と社会と人間を結ぶ詩心を地下水脈のようにたたえていなければならないだろう。人間を蘇生させゆく力が文学にあるとすれば、それは詩心のなせる技であろうと確信する。
    僕は思う、ひとりの人間の生命が永遠であり無限であるが故に、文学もまた無限であると。
    人間の生命は、たてには永遠のながれをもち、よこには宇宙大のひろがりをもっている。

    宇宙即我、我即宇宙である。ひとりの人間の絶えざる生命の革新が新しき想像と価値創造の文学の世界をつくりだしていくのだと思う。

     僕の「大航海」を読もうとする人は、まず精神のシルクロードの険難の雪嶺を越えゆかねばならない。難解な文字と文字の海原に回遊するジュゴンの人魚姫の妖しい影絵と麗しき歌声に惑わされて、眩暈の波にもてあそばれ、おのれを見失わないともかぎらないので、よくよくこころしてわが船に乗り込まないと、途中で暗礁にのりあげ、座礁するか、難破するかしてしまうだろう。

    骨太い感性構造と気高き知力をもって新しき生命の世紀を創ろうと船出した言語の狩人は、さらに新しき人間主義の時代をきりひらく革命の旗手として、非難中傷の嵐の海を勇敢に航海の旅をつづけていくだろう。
    僕の夢の岬に舞い降りたあなたの花の便りは、美しい。あなたの踏み出した尊い一歩は値千金の重みをもって、僕に迫ってくる。

    昨日、あなたの書状は嵐山と鴨川の薫りをのせて天空から舞い降りた。

    1990年6月28日

                              

    #373

    mariko sumikura
    キーマスター

    昨年「港湾の詩学」のアンソロジー詩集「詩人の港・詩人の海」に寄稿いただきましたのも、単なる偶然でなく、飛鳥さんにとっては必然だったのかもしれませんね。大航海時代も、海のシルクロードも、古代航法も詩のなかで蘇ります。

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